少年敗走記

脳みそをさらけ出すダンスホール。

「わが愛しのホームズ」に見た影絵。

ホームズとワトスンの関係を意図的に読み違えた、あるいは勘ぐったパスティーシュや二次創作は枚挙に暇がないが、重圧で作者が原作を読み込んでおり原作ファンの好奇心を小ネタでくすぐる良作に巡り合うのは大変である。

と一シャーロキアンとして述べておこう。

今日ホームズものの二次創作などタダでネット上にいくらでも転がっているし、なんせ本国BBCという本家の本家が現代版ホームズを公式で出しているくらいだ。こちらもわざと二人の関係を同性愛的に解釈させようとするスイッチがいたるところに仕込まれている。

 

「わが愛しのホームズ」はそんな二次創作の中でも異彩を放つ作だ。原作小説の二次小説という形を取っているにも関わらず原作を下敷きに新しい世界を展開するのではなくドイルの築いた土台にそっと矛盾しないように新たな世界や物語を付け加えているという書かれ方なのだ。

 

作者のピアシーがいかにドイルを尊敬し、敬愛し、その完成された世界観を崩さぬよう細心の注意を払いつつ、また原作と矛盾しない設定をドイルが書かなかった物語の裏に付け加えていく。それは二次創作と呼ぶよりもドイルが表に出さなかった影を影絵として「私はこう読み解いた」という解説である。

これは二次「創作」ではなく二次「考察」である。

もちろんドイルが書いていない以上正解ではないのだけれど。

 

この本を恋愛小説だと思って手に取った人はきっとがっかりするだろう。「わが愛しのホームズ」は恋愛というかわいらしい甘やかな世界なんぞ展開されない。

あるのは重圧な人間性の交差であり二本だけのもつれた糸かせだ。時代は同性同士の特別な絆に対して冬の時代であり、そのもつれた糸かせはオスカーワイルドやアランチューリングといった実在の人々をも凍えさせ、巻き込んでいるのだと読み手は徐々に気づかされていく。

そしてヴィクトリア朝という史実とホームズという創作、上品でクラシカルな大英帝国というレトロな暖炉の火の陰には貧困にあえぐ労働階級やストリートチルドレン、インドやその他植民地の血の苦しみという二重の対比が映し出される。

 

さらに一歩踏み込んでいるのはホームズとワトソンという二本の糸にはミス・ダーシーとカークパトリック夫人、メアリとフォレスター夫人という糸たちもまたもつれこんでいるのである。

 

「わが愛しのホームズ」が他のホームズもの二次創作と比較してずっと異質で際立っているのは話が単なる二人の絆で終結せずにオリジナルキャラクターの掘り下げとホームズとワトスンに対する象徴性、そして時代背景の押しつけがましくない反映、説明ではなく匂わせるにとどまるその同性同士の特別な絆の書かれ方。

私は「わが愛しのホームズ」を読み終わった後、自分の嫌いとする恋愛小説を読んだとは感じなかった。この本は社会学的歴史書のような重みと原作への深い理解に裏打ちされた社会学系新書のようである。

 

もちろん原作の二人の仕草や性格が相手への愛情的に解釈されている点はまぎれもなく恋愛ものである。例えばホームズの人を人とも思わぬ態度でワトスンを批判するのは彼の気を引くためであるとかワトスンの結婚に対しホームズが普段の冷徹さを亡くして狼狽した風を見せるとか、そういう原作へのピアシーの解釈は恋愛小説と呼ぶにふさわしい。

 

だがそういう、私が苦手な恋愛描写すら目をつぶれるほどの原作への深い理解と敬愛が見て取れる、なるべく原作の世界観を壊すわけにはいかないという細やかな配慮が読み手に伝わってくるほどの緻密に構成されたストーリーは一シャーロキアンをして圧倒されたと言わざるを得ない。

 

綿密に織り込まれた原作ネタ、緻密なストーリー運び、忠実に再現されたワトスンの口調、矛盾のない新たな世界観の付加、オリジナルキャラクターを登場させながらも原作ファンを納得させる構成力。

二人が一歩近づくだけの動作を丁寧に描写していく細やかで繊細な文章の特徴は、後半の舞台として描かれる黄金に染まった秋のパリの情景に一部の隙もなくぴったりで息をのむほど美しい。挿絵もない文章だけでこれほど美しいのならもし映像化されたらどれほどの芸術的描写になるだろう。そこだけ時の止まった永遠の絵画のように空気すらも情景を醸し出す雰囲気に姿を変えるであろう。

書き手ピアシーの筆致には舌を巻くばかりである。この一作しかホームズパスティーシュを発表していないのが残念だ。

是非ともこの人にはその後のストーリーも書いてもらいたいものだ。

例えば引退後の二人のストーリーとか。あれだけの構成力でおだやかな二人の邂逅を描くピアシーなら引退後の静かな生活を送る二人の関係はどう描くだろう?

今作のおだやかな雰囲気はそのままにもっと老成した情景を流れるように展開させるに違いない。

何時までも待っているのでぜひとも書いてもらいたい。