少年敗走記

脳みそをさらけ出すダンスホール。

黒執事坊ちゃんに見る理想の女性性

理想の少年

 

女性の理想の女性像とは少年である。

 

黒執事を何年も読んできて近日ふと考えた。

坊ちゃんは現代女性の現実を踏まえた上での女性の理想的な自画像であると。

今回は黒執事の少年像とジェンダーを絡めて論じていく。勿論私の勝手な考察なのでそこはご了承の上読み進めていただきたい。

 

少年は男である。当たり前だ。だがこの点が少年と成人男性との関係を述べるうえでとても重要なことなのだ。

 

古代ギリシア少年愛などは除き、現代の成人男性と少年との関係は男同士という対等性と大人と子供という非対等性の矛盾を含む。

 

つまり男同士であるがゆえにその関係には性の関係は介入しない(一般的には)。しかし大人と子供であるがゆえに成人男性の少年への対応は庇護が含まれる。

 

この性欲を含まない庇護の関係を持ちつつの男同士という対等は現代女性が成人男性に望むものである。ほとんどの場合叶わないが。

男女平等ではあるけれど明らかに男より身体能力的に劣る女への庇護を含む男女平等。かつそこに性欲を含まない対等。

この現代女性の理想を体現しているのが少年という存在である。

 

さて、黒執事の話にいこう。

黒執事のネタバレありだが私は単行本派なので最新巻までのネタバレありで話を進めていく。

なお坊ちゃん、眼帯の方の主人公、を坊ちゃん。蘇った死者の方の本物のシエルを兄シエルと呼んで話を進めていく。

 

坊ちゃんは現代女性の現実を踏まえた上での理想的な自画像であるとはどういうことか。

 

1. 坊ちゃんは少年だが仕事をしている

坊ちゃんはおもちゃ会社経営者である。少年という子供だが企業を経営し、そのトップに立ち人を使う立場である(貴族という身分もそうだが)。

経営者としての坊ちゃんと従業員との関係は細かく描かれていないので何とも言い難いが、いくら貴族で社長というトップの立場でも少年という子供である。従業員は当然大人だろう。従業員ははたして坊ちゃんをどの程度対等(あるいは目上)と考え、敬意を払っているだろうか。所詮は子供という面従腹背の態度をとる従業員だって当然いるだろう。

 

この状況は現代女性と同じだ。男性より身体的に劣り、なめられやすい。人の上に立ったり指導する立場になれることはなれるもののまだまだやりづらい雰囲気があるし所詮は女だと思われ、年上の男性の前では発言もしづらい。

能力の前に子供という外見、女という性別が天井になる。

 

ちなみにヤード(警察)との女王の番犬としての関係は極めて現代的な男女観に見える。坊ちゃんは子供だが女王の番犬としての裏社会の権力もあり、ヤードは坊ちゃん逮捕の際に「シエル・ファントムハイブ卿」もしくは「ファントムハイブさん」と呼び掛けている。子供相手にである。

これはキャリアを積んで男性と対等に見てもらえる女性の面の鏡写しだ。若い女の場合年上の男性にはタメ口ちゃんづけで呼ばれることもあるが坊ちゃんのような

「裏社会に権力を持つ(子供だてら)」=「キャリアを持つ(女だてら)」の構図だ。

 

子供だてらなんて言葉はない。私の創作だ。

 

2. 悪魔崇拝儀式での暴行

10歳の誕生日に双子が巻き込まれた悪魔崇拝儀式。ぼかされているが大人の読み手ならここで性的暴行があったことは読み取れる。性的暴行を受けるのが少年という男なのである。

ここに成人男性と同じ男ではあるが庇護が必要で身体的に劣る存在の少年、成人男性には身体的に敵わない少年の弱さが描かれる。これは成人女性の弱さである。

 

これは現代女性の叫びだ。いくら男女平等、成人男性と対等な存在でありたいと望んでも結局は身体的に男性には敵わずそこから生まれる弱さ、脆弱さ、か弱いというイメージへの苦しみ。

 

3.ファントムハイブ家次男という呪い

坊ちゃんは次男である。この次男というワードはずっと坊ちゃんを苦しめてきた単語である。幼いころから兄シエルのスペアという扱い。

「みんなに大切にされているのはシエルだけ。僕はおまけ。」

「僕だけ生きて帰っても誰も喜ばない。」

坊ちゃんはシエルのスペアであり、予備であり、領地も爵位ももらえない。だって次男だから。

だけど貴族というブランドはあるのでロンドンに出ておもちゃ屋になるという夢は型破りで旧来の貴族観を持つ兄シエルには理解されない。義務はあるのに権利はない。

 

これは現代女性の女という呪いだろう。

結婚しろ、子供を産め、少子化は女が子供を産まないせいだ、でも自分で働いて生きろ、介護もやれ、家事もやれ、子供の非行は愛情が足りないからetc........。

だって女だから。

旧来の女性観に沿うという義務は押し付けられるのに男性と全く対等の人生を生きる権利はない。

 

坊ちゃんが兄シエルに身を偽るのはこの構図に照らし合わせると男装だ。ファントムハイブ家次男という呪い、おもちゃ会社経営という夢を叶えるためには兄シエルに成り代わるしかなかった。つまり男装し、男として生きるしか完璧に男と対等にはなれないという一種の男女平等を追求する社会への答えのように見える。

 

しかし坊ちゃんの真相が明らかになり、兄シエルと対峙するために逃げずに戦うというシーンはその「男になるしか男と対等になれない」という構図を崩したように感じられる。

つまりジェンダー的な解釈をすれば「男になって男と対等になる」から「あくまで女のままで男と対等になるために戦う」に作品のテーマが変わったのだ。

このシーンが坊ちゃんが七面鳥を食いちぎり文字通りアイデンティティをぶち壊したシーンだ。いつもの紳士然とした坊ちゃんの態度が一変し「うるせぇ!」という粗野な言葉遣いになる。

 

ここで覚悟を決めたのだ。もう旧来の女性観なんぞ知るものか!自分のために生きるのだ!という押し付けられる女性観への反発。

それが「うるせぇ!」という言葉遣いから読み取れる。

 

 

最後に少年は未来がある。つまり今は「まだ」男だが子供という庇護を受ける存在だがいつの日か男になり成人男性と対等になる。というか成人男性になり他の男性と対等の関係になれる。

これは現代女性が持つ希望に繋がらないだろうか。現代は「まだ」成人男性と男同士のような対等は築けないが「いつの日か」男同士になれるのだという究極の男女平等への希望。

個人的には男女という肉体的な性別があり人類に性欲がある以上これは無理だとは思っているが。

 

黒執事ジェンダーの話をするには坊ちゃんよりもうってつけなのがメイリンだが今回はあくまで少年と絡めての話なのでメイリンの話はまた今度。