少年敗走記

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感情的な「身内」にどう対応するか

お久しぶりです。しばらく更新しないうちにたくさんのコメントがついており、ありがたいことです。ありがとうございます。すべてに返信することはできないのですがコメントはすべて読ませていただいております。

様々な意見をいただきましたがどのような意見にしろ、たとえ反論の意見であったとしてもきちんと読む私のことを考慮してコメントしている方が多くなかなか大人な方々がこのブログを読んでくださっているようです。

さて、今回の論題はこんな大人の方々とは正反対の「感情的な『身内』にどう対処するか」です。ネットでは感情的な人にどう対処するかが書かれた記事はいくつか読みましたが相手が距離を置ける上司や同僚、仕事仲間であることがほとんどでした。身内の場合はまた対処が違ってきますし不可能な方法もあります。

 

僕が今回この記事を書いたのは僕の母が感情的に動く人間であり、僕は子供のころからそれに振り回されたからです。

例えばこんなことがありました。台所にスマホを置きました。ずっと置きっぱなしではなくコーヒーを入れる間のわずかな時間だったのですが母のマイルールに違反したらしく怒り出しました。

母「こんなところに置いて!!落としたらどうするの!!!」(発言全てにビックリマークがつきます(笑))

僕「いやすぐにどかすし、たとえ落としてもそれは僕の責任だから」

母「はぁ!?何言ってんの!!!落としたら修理にお金かかるでしょ!!!」

僕「あなたに払えとは言ってないし、さっきも言ったようにたとえ落としてもそれはそこに置いた僕の責任であってあなたを責めたりはしない」

母「は!?お金ありあまってるのかしらね!!あんたおかしいんじゃないの!?そんなんでやってけるのかしらね!?」

僕「母さんそれ相手が友達であってもそう言うの?」←カウンセラーさんに教わった方法

母「言うわよ!」←(嘘だろ)

続く.........

とまあ話は平行線へ。あんたおかしいんじゃないのはこっちのセリフですがそれは言わないことにしました。このケンカ?はほぼこのままのセリフです。僕のセリフが少々不自然ですが僕は相手にのまれて感情的になるまいと自分を抑えていたのでこういう冷静な話し方を心がけました。

といってもまだ相手に影響されて口論の後にイラついてしまったので方便品を唱えて落ち着いてみました。(仏教オタクなもので)

 

この後感情的な人間の対処法を調べてみたので今までの経験(母への対応法)からわかったこと、これから試してみようと思っていることを書いてみようと思います。

その前にこの会話から感情的な人間の思考回路が少し見えたので整理してみようと思います。すべての感情的な人間に当てはまるかどうかはわかりませんが役には立つかと思います。

まず上の母のセリフからわかるのは「論理が一貫していない」「抽象的なセリフが多い」です。

僕のセリフは「あなたに責任はない(から口出しするな)」という主張を何度もしています。つまり僕の主張は一貫していると思いますが母の主張は一言目、二言目、そのあとの主張が全く一貫していません。

スマホが落ちることに怒り、修理に金がかかることにキレ、「そんなんでやっていけるのか」という僕の人生?への口出しetc...、とどんどん話があっちへこっちへ。

 

これはまさし感情で動いているから。次から次へと心に沸き起こってくる不愉快をそのままぶつけているだけ。会話はここに書いただけではなくまだしばらく続いたのですが、面白いことに僕が「スマホが落ちてもあなたを責めはしない」と同じことを何度も言っていたのに対し、それに対する母のセリフがすべて違ったのです。上に書いたように話題があっちへこっちへ飛躍します。これだけでもう論理が通っていないことがよくわかると思います。つまり僕の主張が「AはBであるからCだ。」という

A→B→Cという川のような流れがあるのに対し、

母はA!!! B!!! C!!!!

という島から島へ飛び移るような流れのない意見の断片であるわけです。

 

次に「抽象的なセリフが多い」。

「そんなんでやってけるのかしらね」「あんたおかしいんじゃないの」。

このあたりのセリフはまさに日本語らしい何を言いたいのかよくわからない言葉です。「そんなんでやってけるのかしらね」は僕は英語にできないセリフ(つまり曖昧)だと思います。

ちなみに、そんなんでやってけるのかしらね、というのは「母である私への態度がそのように無礼であるならば社会での対人関係もそのように失礼なものであるのだろう。もしそのように無礼な態度を社会でとっているのならばあんたの人間関係は破たんするぞ」であると僕は解釈しました。

あんたおかしいんじゃないの、は「私の意見は正しい。その正しい意見を受け入れないあんたは頭がおかしい」であると思います。

 

「あんたおかしいんじゃないの」は明らかに捨てゼリフだったので無視しましたが「そんなんでやってけるのかしらね」に対し僕は「いや社会での対人関係はあなたへの対応とは違う」と反論しました。火に油注いだだけでしたが。

 

ちなみに僕のセリフ「それ相手が友達であってもそう言うの?」というのは相手が論理的な人間であるからこそ通じるセリフであり感情的な人間を諭すのには使えないようです。いい研究結果になりました。

 

で、ここから対処法を述べてみようと思います。対処法に関しては僕もまだ試行錯誤中なのでうまくいった方法、いかなかった方法、これから試してみようと思っているものなどいろいろあります。

1.聞き流すこと

感情的な人間は論理が通っていないので僕らはそういう人間の意見を「それはおかしい」と思ってしまうことも多いと思います。特に相手が身内であれば、特に親であれば「わかってほしい」「わかってくれるだろう」と期待してつい聞き流せず口を出してしまうこともあると思います。しかし、相手が親だろうが分かり合えない部分は分かり合えません。残念なことですが親の愛は無償の愛ではなくましてや子供をありのままに受け止めることではないと僕は感じます。むしろ自分の子だからこそ友達や他人には言わない残酷なことも平気で言えてしまいます。だから聞き流すというのは相手が他人である場合より難しいのですが聞き流すよりほかはないと思います。

 

2.正論で対処しないこと

「何でだ!」と思うかもしれませんが感情的な人間に正論でぶつかってはいけません。今回僕がやってしまった失敗はこれでした。「スマホが落ちて壊れてもあなたに責任はない」というのは正論ですが、ぶっちゃけ感情的な人間は相手の意見なんか聞いちゃいません。相手の意見のイラッとした部分だけをとらえてギャーギャー騒ぐだけです。正論で対処するというのは「相手が理解してくれる」と期待することですが感情的な人間は相手の意見は聞いていないので理解もヘチマもありません。

相手が身内であればあるほど理解してもらうことを期待してしまいますが感情的な人間に自分の意見を理解してもらうことを求めるのはやめたほうがいいと僕は思います。かつ、どんなに正論で対応しても感情的な人間は絶対に自分に非を認めません。恨みを買うだけです。親であるならなおさら自分の子には謝らないでしょう。

 

3.相手を3歳児だと思うこと

「泣く子と地頭には勝てない」と言われるように道理の通じない相手には勝てません。なので相手が親でも3歳児だと思いましょう。さっきの聞き流す方法にも通じますが相手を親や身内だと思わずに「お菓子を買ってもらえない小さい子」だと思ってください。最初はそうは思えないと思いますが無理にでもそう信じ込むのです。「相手の中には幼児の人格がいてその子が騒いでいるんだ」みたいなストーリーをつくってもいいです。相手を見下すことにもなるので性格は悪いですがちょっとスッとします。

 

4.冷静に対処すること、こっちも感情的にならないこと

これは言わずもがなだと思いますがこっちも感情的になるともはや水掛け論ですし、はたから見れば同じレベルに見えてしまいます。はっきり言いますが、感情的に動く人間はバカです。せっかくこんなブログを読んで(書いて)僕らは感情的に動く人間に対処しようとしているのですから教養ある大人として感情的に動くバカと同じレベルに堕ちることはありません。

 

5.理解を示すこと(うわべだけでいい)

4の冷静に対処するができてからの話になりますが、上っ面だけでいいので相手をちょっとだけ肯定しておきます。全部肯定すると相手が調子に乗るのでほどほどに。人間は怒っている時、悲しんでいる時、落ち込んでいる時などマイナスの感情にとらわれている時は正論は役に立ちません。役に立たないどころか相手の症状を悪化させます。カウンセリングもまずは患者さんを肯定することから始まります。だから相手を肯定してあげる。「うんそうだね」「こっちもここは悪かったね」と言ってみる。あんまり「こっちが悪かった」というと相手は鬼の首を取ったように威張りだすので少しだけです。ここは忘れないでください。別に心から肯定しなくていいです。

例えばさっきのスマホを台所に置いた件の口論だって僕が「ああごめん」と言いさえすれば別にそれで終わった話だったなと今は思います。本当に悪いと思っていませんがただ「ご」と「め」と「ん」を発音すればよかっただけです。

別に自分が悪くなくても謝ったという事実はイコールあなたが悪いことにはなりませんし、言い負かされたことにもなりません。3歳児と本気でケンカする大人はいないでしょ?こっちが悪くなくても適当に謝っておくでしょ?そういうことです。感情的に動く人間はバカですがプライドは高いので相手が謝ったという事実でいささか機嫌が良くなることもあります。

 

ここからは調べてみたけれど身内相手には使えない方法です

・一対一にならない

これは相手が他人だから使える方法です。いくら感情的な人間に複数で対応したとしてもその複数が自分以外全員他人では仕方がありません。僕の場合のように母vs子の口論が始まった場合他人は口を出さないでしょう。それとその複数が全員家族でもやはり意味はないと思います。先にも述べたように家族というのはどうしても論理より感情で動くのでよけい話がこじれるだけだと思います。同様に家族のほかのメンバーに助けを求めるのもあまり期待できないと思います。母と子だったらたぶん母のほうに味方するメンバーが多いでしょう。日本では子供は親のモノですし。

 

・距離を置く

これも無理です。自分がまだ子供ならますます無理でしょう。それに家を出ることで物理的な距離は置けても今はスマホでいくらでも連絡は取れます。LINEなんかでは居留守も使えませんし。ブロックすることで余計相手を怒らせるでしょう。物理的な距離を置くことで少しは楽になりますが身内(特に親)の影響はどこまでもつきまといます。僕なんか階段を上る足音でいまだにビクッとします。そういう意味では心理的な距離は置けないものです。

 

最後に。

感情的な身内に上のような方法で対応することは一見折れているように見えると思います。「結局言い負かされてない?」って。しかし、僕はたとえ相手に「あなたは間違っている」と正面から言わなくても心の中で自分は間違っていないと思えていれば負けたことにはならないと思います。むしろ正面から正論で対応することで火に油を注ぐくらいだったら適当にあしらったほうがよっぽど大人です。感情的な人間に対応することはただでさえ腹が立つことですがそれが身内となればなおさらです。

しかし考えようによってはチャンスだとも僕は思います。つまり身内という遠慮のない相手に何をされても冷静に対処できるようになればこれから先どんな相手にでも冷静に対処できるようになるかもしれない、ということです。

僕はそうでした。僕は人生で一番我慢した人間は母なのですが、社会に出てからは「何と社会とは甘いものか」と感じました。どんなひどい人間であっても母よりひどいことをされたことはなかったからです。何より社会人は絶対に手はあげません。母相手なら誰にも助けてもらえないこと、誰とも共感できないことでも相手が上司や先輩なら「イジメ」として訴えることもできますしほかのいじめられている人とつらさを分け合うことができると思います。僕は母相手にずっと一人で耐えてきたのでぶっちゃけ社会に出てからは楽でした。

つまり感情的な身内に対して「これはチャンスだ」と発想を転換できれば(それがたとえ妄想や逃げであっても)もうそれだけで僕らはその身内に勝っているのです。

だから別に正論で言い負かさなくてもいいじゃないですか。

 

オマケ

以下は僕がこれからやってみようと思っている方法です

・質問してみる

相手の支離滅裂な意見に対し「それって~ということ?」とこっちがまとめてみる。このまとめは別に正しくなくてもいいです。どうせ相手は「そうだ。」とは言いません。必ず「違う!!!!!」とわめきます。そうしたらすかさず「じゃあどういうこと?」と向こうに要約させる。「結局何が言いたいの?」「要約してくれる?」と言ってみる。

この方法を試してみようと思っているのですが懸念が一つ。

この方法は相手に論理的に説明させようとしているのですが感情的な人間が論理で説明しようと思ってくれるかどうかが分かりません。むしろ「ケンカ売られた」「ケチ付けられた」と思い込んで怒りに拍車がかかる可能性があります。特に「結局何が言いたいの?」はアクセントによってはケンカ腰に聞こえるかな、と。

または「じゃあ~すればいい?」と意見を提案してみる方法も考え付いたのですが感情的な人間は(特に僕の母は)100%自分の思い通りにならないとキレる人間なので僕の母相手には使えないかなと感じます。

 

もしこのブログを読んでくださった方でこういう方法があるよ、僕がこれから試してみようと思っている方法をすでに試してこうだったというデータをお持ちの方はコメントしてくださるとありがたいです。

お互い大変な身内をもった身ですが身内だからといって好きになる必無条件に従う必要もないのでただの研究対象として見ておけばいいと思います。

それでは。お互い頑張って生き延びましょう。

蟲師ギンコの男っぽさ

蟲師の解説本「連綴」を読みながら蟲師のアニメを見返しています。蟲師のアニメは原作に忠実につくってありますが、それでも動きや色、声がつくことで原作にはない解釈ができたりするものですね。

その一つにこの連綴にある「ギンコは普通の兄ちゃん」というのはアニメではより顕著に出ていると思います。ギンコは男相手には容赦ないというか、乱暴なのに女相手だと優しい気づかいを見せたりするところとか。

例えば「枕小路」でジンを火事の家から連れ出すのはいいがそのあと地面に放り出して火を消しに行く。ジンが地面に頭をぶつけるシーンもちゃんと描かれてるんですよね。

「雨が来る虹が立つ」でも虹郎を夏の炎天下で空を見張らせたり(自分は日陰にいて「ちゃんと見張ってろよ」なんてちょとひどくない?)虹郎が虹蛇に触ってしまったときも肩をつかんで地面に引き倒して助けたり。助け方が乱暴なんですよね。その時のセリフ「ばかやろが。どうともねぇか。」もまさしく相手が男だからでしょうね。女相手だったら「おい、大丈夫か」くらいになりそうです。

女相手だと結構肩入れするし、助け方も優しい。「瞼の光」でも目をなくしたスイに自分の義眼をあげたり「虚繭取り」の綺にも自分の人生を歩ませるために虚穴に連れて行ってあげたり。しかも一緒に入ってあげる。

この、同性相手だと気取らない、飾らないが異性相手だと優しく接するところが自然な自然さというか、作者は女性なのに(アニメの監督は男性だけど)わざとらしくない男っぽさが出ていて面白いなぁと感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アナザー・カントリー」を今更観た

古き良き英国のパブリックスクールを舞台とした映画「アナザー・カントリー」を今更観てみました。アナザー・カントリーといえば同性愛のテーマがやたらと浮き彫りにされていますが、僕の印象としては「伝統に縛られた不自由な世界で若者はいかに生きるか」がテーマだったように思います。共産主義に賛同する(当時のイギリスではとんでもないこと)学生も出てきますし、学内での教練といった軍隊と言う不自由さの象徴も登場します。

 

さて、なんで今更この古い映画を観たのか。まず初めに言っておくと僕はBLはあまり好きではありません。(自分がLGBTのくせしてね。)

そもそも同性だろうが異性だろうが恋愛モノって観ていてつまらないと思うのでBLだろうがNLだろうがGLだろうが自らすすんで読むことはほとんどありません。

 

ですが、最初に述べた「縛られた不自由さの中でいかに生きるか」というテーマが僕は実は大好きなのです。それは身分かもしれないし、人種かもしれないし、失った大切な思い出かもしれないし、生まれながらに背負った障害かもしれない。その中の一つが同性愛だと思います。そういうわけで今更ながらアナザー・カントリーを観てみました。

 

あらすじなんかは調べれば出てくるのでここでは書きません。この映画の中で最も美しいと感じたのはハーコートとベネットが夜の礼拝堂?かどこかで身を寄せ合い、語り合うシーンです。会話自体は全く甘い恋の睦言でも何でもないんですが、このハーコート役の役者の演技のうまいことうまいこと。

一瞬彼の青い瞳が涙できらりと光るシーンがあります。その時の切なげな物憂い表情。帰りたくないのに帰らなければならない。そしてその後の永遠の別れをすでに知っているかのような、惹きこまれる表情です。

そういえば彼らキスもしてないんですよね。この身を寄せ合い、語り合うのが最大の愛情表現。縛られた世界で生きる抑圧による美しさ、伝統に縛られ不自由な中の耽美さが良く出ている表現だと思います。

 

かつ、映画の中で何度も流れる'I vow to thee my country'ですが、これはジュピターの惑星でも有名ですね。この曲に詩を付けたのがイギリスの外交官だとか。歌詞を見れば愛国歌だとすぐに分かります。

この映画はソ連のスパイになった主人公が過去を思い出すという語り口で始まる映画なのでまさにこの曲はぴったり。なぜ彼が国を売ったのか、祖国に牙をむいたのかが分かっていくとこのI vow to thee my countryは皮肉ですし、映画のタイトル「アナザー・カントリー」の意味も分かってきます。

この「アナザー・カントリー」は I vow to thee my countryの歌詞 'And there's another country, I've heard of long ago...'に出てくる言葉です。「誰にも知られることのない国がある、その道は静かで穏やかで平和へと繋がっている・・・」というような歌詞です。この意味をふまえて映画「アナザー・カントリー」を観ると監督が描きたかった内容が見えてくるようです。

この英国で認められなかった共産主義、同性愛はきっといつかどこかのまだ見ぬ国で受け入れられる時が来るだろう.....といったようなことでしょうか?

まあ現代を見ればそんな国はどこにもないわけですが。

 

あ、あと少年好きの僕としては時々可愛いショタが出てくるので満足でした。ウォトートン可愛い。彼と、あと物語の序盤でリネン室の階段の上で湯がぬるいと言いに来たあの少年が可愛かったです。始め女性の寮母か女中だと思いました。見た目は普通の(といっても美少年)男の子なんですが、声が女の子のように可愛いです。名前も出てこない役ですがあのシーンだけ何度も見てもいいほどかわいい子です。

 

I vow to thee my countryで最もおすすめなのがLiberaが歌うものです。Winter Songsというアルバムに入っているので是非。

「ポピュラー対位法」読んだけど日本語が分からない

音楽理論の本、対位法について書いてある「ポピュラー対位法」を読んでいるんですが、この本日本語が下手すぎる。

分からない文章というのは三種類あって

1.専門用語で煙に巻くタイプ

2.文法が滅茶苦茶、省略された言葉が多いタイプ

3.指示語が多すぎるタイプ(それにあたる、みたいな文章)

 

ですがこの本は2に当たります。主語を言え!日本語は主語や目的語を省略してしまうという傾向のある言語だと思いますが、その典型例のような文章です。かつ間違ってる情報が多い。

例えばGsus4と言いつつ楽譜には「ソ、レ、ファ、ド」の4つの音が書かれていたり(これはG7sus4だよね?)

 

24ページにある「前のコードのコードトーン(3度か6度)が残り」というのは何の前のコードなの?

x→Gsus4→G7ってこと?

じゃあそのxにあたるコードを書いてくれないと前のコードのコードトーンが残ってるかどうか読者には分からないと思うよ。

 

そもそも17ページの楽譜の下に書いてある数字は度数を表しているというけれどト音とへ音でオクターブあるのに8度以内に直されると見づらいんだけどなぁ。

楽譜の視覚情報と度数の情報が一致しないから読者は混乱しやすいよ。

 

僕はまあ、せっかく買ったし良いところもある本だと思うのでこのまま読み進めようと思いますが音楽理論をまだあまりやっていない人には勧めません。そこそこ他の音楽理論が分かってないと訳が分からない本だと思います。

かつ、日本語が母語でない人にも勧めません。よくある、省略された言葉が多すぎて「読む」というよりは「こういうことを言いたいんじゃないかと推理する」本、著者の中で当たり前だと思っていることが前提とされて解説、表記されておらず不親切な本だと思います。悪いけど。

平沢進の音楽と出会った経緯

僕はこの世に13万人いるといわれている馬の骨の一部でありGN団の一員でもあるわけですが、この人を知ったのは9年前。

どっかで話したかもしれませんがここでもう一度丁寧、なぜこの人に出会ったかを話します。

そのためにはまず声優さんの話をしなければなりません。事の発端は代永翼さんという声優です。そのころ両声類の歌い手にハマっておりその情報網のどこかで「代永翼さんという声優が歌うときめきの導火線というカバーが本当に女性のように聞こえる」という話をきいたのです。youtubeで検索しても違法アップロードなどはされておらず音源を入手するために「新・百歌声爛ー男性声優編ー」を入手し聞きました。男性声優がアニソンのメドレーを歌うCDです。

 

で、このCDは代永さん以外の声優さんも歌っているわけで、せっかく買ったのだから最初から全部聞くでしょ?でも古いアニメの曲が多いので知らない歌ばっかりでつまんないんですが律儀に最初から全部聞いたのです。

そうしたら安元洋貴さんのトラックまできたときになにやら壮大でかっこいい音楽が聞こえてきたのです。それがベルセルクのForces。

もちろんオケは師匠ではなくカラオケのようなアレンジでしたが十分原曲のかっこよさは残っているわけです。興奮して歌詞カードを見ると「作詞作曲:平沢進」。

 

あとはネットで「平沢進 ベルセルク」で検索、「救済の技法」ゲット。

当時はまだAmazonのアカウント持ってなかったのでCD屋さんに行きアマゾンのページ見せて「これください」→「置いてません」→取り寄せ、です。

救済の技法にはForcesがボーナストラックとしてついており、Forcesありverとなしverがあるので「ボーナストラック入ってるほうね!」と念押しして取り寄せてもらったのを覚えています。

 

で、せっかく買った救済の技法は最初から聞くでしょ?そうするとますますこの平沢進と言う人が気になるわけです。

どうせならこの人を最初から知ろう、と次に買ったアルバムがP-MODELの「ランドセル」。

今考えると平沢ソロから初期P-MODELに飛ぶのは間違っているわけですが当時はそんなことは露知らず。

当時は「ランドセル」は全く好きではありませんでした。平沢ソロのあの雄大さ、懐かしさはどこへやら。

各種P-MODEL、平沢ソロ、核P-MODELを知った今なら別の元のとして楽しめますがね。

障害者はこの世に「必要」なんだよ!

そう、障害者はこの世に必要なのです。なぜ?多様性のために。多くの人々が多様性を受け入れられるようになるために。

ここでは「命は大事」とか「人の命は地球よりも重い」みたいな所謂キレイゴトを言うつもりはありません。こういう意見はなかなか頭の固い人間には受け入れられないからです。

 

近年しばしばいわれる多様性はなんだか「英語を理解して外国人と仲よくしよう」みたいなただ楽しいだけの思想のように語られていますが、僕は本当の多様性とはもっと複雑で受け入れるのが難しく、人間の本質に揺さぶりをかけるものだと思います。

 

本当の多様性とは今まで社会から排除されてきた人々、障害者や精神病患者、犯罪加害者やその家族、LGBTXと同じ街で暮らします、ってことです。

あなたのマンションの隣の部屋にそういう人たちが住むってことです。

例えばあなたの部屋の隣に統合失調症の人が引っ越して来たら?皆怖いとおもうんじゃないですか?それは今まで統合失調症の人と接した経験がなく、ネットや本の知識でなんだか怖い精神病だ、くらいの認識しかないからでしょう。

 

僕には統合失調症の知り合いがいます。初めてその人と部屋で二人きりになった時、正直に言って恐怖を感じました。僕も統合失調症という病気は文字の知識でしか知らず、何をされるかわからないと感じたからです。

しかし、しばらくその人と会ううちにきちんとその人がどういう人なのかが分かり今は統合失調症という病気の名前で怯むことはありません。

もし僕が子どもの頃から当たり前に身の回りに精神病の人がいたら初めから偏見なしで接することができたのではないかと思います。

なぜなら僕は幼いころダウン症の友達がいたのですが他の健常児の友達と同じように接していました。というか僕はその子がダウン症だということも知らず、(そもそもダウン症自体を知らなかった)ちょっと変わってるけど優しい子だなーくらいに思っていたからです。

差別や偏見をもたないというのはそもそも「この人はダウン症」「この人は黒人」みたいなジャンル分けをしないということだと思います。

 

これは大学の時の経験ですがある時学外の人に「君に黒人の友達はいるか?」と聞かれてとっさに答えられなかったことがあります。

もちろん黒人の友達は何人かいたのですが、おもしろいもので仲が良くなればなるほど相手の人種や国籍なんかは見えなくなってしまうものなのです。

「あいつはアメリカ人で、黒人で」みたいな情報より「あいつはサッカーが好きでカレーは日本のよりスリランカのが好きなジェームズ」みたいな身近な情報にすりかわっていくのです。だから突然黒人の友達はいるか、と聞かれても思い出せなかったのです。しばらくたってから「あ!そういえばジェームズは黒人じゃん」みたいに思い出すのです。

初めてこの感覚を経験した時はものすごく面白く感じましたし、何より差別をなくす方法ってこれなのではないかと思いました。つまり、相手を良く知ってしまうこと。

 

障害者の話に戻りますが、僕は障害者だけでなく上にあげたこの世の中から排除してきた人たちと共に同じ街で暮らすために、「普通」の人たちを多様性に慣らすためにこういう人たちは必要なのです。

 

今の世の中はどんどん右翼化しマイノリティや多様性排除の方向に進んでいますがこういう傾向は普通の人たちの首をも絞めています。

だっていつだれがマイノリティになるか分かりゃしないんですから。障害者やLGBTXが街に普通に存在する世の中になればいざ自分が障害者になったり自分の子がLGBTXだったりしたときに隠さなくてよいし、相談しやすいし、何よりそれほど落ち込まなくてすむのではないでしょうか。少なくとも現実を知らないことで悪い方へ考えすぎることもなくなると思うのです。

以前、一橋の大学院でしたっけ、ゲイだとアウティング(勝手に言いふらされた)されて自殺した男子学生がいましたね。

もし僕が上で述べたように多様性が受け入れられた社会であったなら彼は死なずに済んだのではないでしょうか。彼は社会から放たれた弾丸に殺されたといっても過言ではないと思います。

 

つまり、この世に障害者やあらゆるマイノリティは必要なんだ、自分たちを普通だと思っている人々を多様性に慣らすための先生としてってこと。

 

余談ですが平沢進という音楽家がたまに自分が生まれ育った昔の亀有の話をすることがあります。この人の語る亀有はまさに多様性が存在した場所でした。キチガイ日本兵(差別ではなくこう呼ばれていた)ぜんちゃんや変わり者のアキラさんなど今の世の中なら真っ先に排除されてしまう人達とと共に亀有の人々は生きていたようです。今は単なるキレーな街になってしまったようでなんとも残念です。