少年敗走記

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米津玄師「vivi」は消えるイマジナリーフレンドを歌ったものか

 今回は米津玄師さんの「vivi」を分析していきます。最初に行っておきますが、以下の考察は総て僕が考えたもので本人がそうおっしゃったわけではありません。なんの根拠もないので「お前の妄想だろ?」と言われればその通りです。

この点のご了承をお願いします。あと、歌詞に「僕」という言葉が使われているので私は今回「私」という一人称を使います。

 

さて分析開始。

まず登場人物はふたり。ロボットの様な生き物と少女。

どっちが「僕」でどっちが「vivi」か。

ロボットの方が「僕」で少女が「vivi」です。PVの「あなたへと渡す手紙のため」でロボットが机に向かっているので「あなた」=「少女」=「僕じゃない方」になります。つまりこの歌はこのロボット目線で話が進むんですね。始め逆かと思ってました。

 

普通の恋愛や友情でないことは「僕」が明らかに人間じゃないことからわかります。

私はこの「僕」を少女がつくりだしたイマジナリーフレンドではないかと推測しました。

この曲を一言でいえば「イマジナリーフレンドを失い’普通の大人’に成長していく少女の歌」だと考えました。それをイマジナリーフレンドの視点から歌う歌。

 

なぜ私がそう考察したか?

まず何度も繰り返されるサビに注目します。

「愛してるよビビ、明日になればバイバイしなくちゃいけない僕だ」

つまり僕は「あなた(少女)を愛しているけれど、明日(未来)にはあなたの傍にいてはいけない」と歌っています。

イマジナリーフレンドは多くの子供が持っていますが大人になるにつれてほとんどが消えてしまいます。

精神科でも一昔前までは病気かどうか審議されていたものでした。現在でも人格解離(多重人格)と区別がつきにくいもの、とされています。

つまり世間的にはイマジナリーフレンドを持たない大人が正常とされ、子どもの頃から持ち続けているのはおかしいとされるのです。

だから僕は少女の傍にはいられない。この少女の幸せを願うなら自分は消えなくてはならない。ただし、この「あなた」を置いていくのは「灰になりそうなまどろむ街」だ。

 

次にDメロの「溶けだした琥珀の~」を見ていきます。

まず耳慣れない「カリブー」という言葉ですがこれはトナカイの一種だそうです。トナカイと言えば?サンタクロースですよね。

そしてはっきり子供という言葉が出てくるのが「街から子供が消えていく」。その場面でPVでは「僕」が空から落ちていきます。

子供時代の空想は終わり、サンタやイマジナリーフレンドを失った子供たちは普通の大人になっていく。つまり、「街から子供が消える」のです。

 

では少しずつ歌詞の違うサビに注目します。

2番のサビでは「明日になれば今日の僕らは死んでしまう」「こんな話など忘れておくれ」「言いたいことはひとつもない」と僕は言います。

確かにイマジナリーフレンドとの思い出は写真に残せるものではないし、成長するにつれ自分がイマジナリーフレンドを持っていたことも忘れてしまいます。たとえ覚えていても誰かに話せるものでもなし。そういう意味で「明日になれば(未来では)今日の僕らは死んでしまう」「こんな話など忘れておくれ」ではないでしょうか。

 

「言いたいことはひとつもない」はこれから消えていく僕が何を言ったところで少女は悲しむだけでしょう。「さよなら」「元気でね」はもちろん「また会おう」でもないし。ここは本当は「言いたいことはひとつもない」ではなく「言える言葉はひとつもない」ではないでしょうか。実際最後のサビで「それでも何も言えない僕だ」と歌ってますし。

 

最後の「さよならだけが僕らの愛だ」がちょっとひっかかりました。

では今まで一緒に過ごしてきた時間は愛ではなかったのかと。

これはもちろん今まで一緒に過ごしてきた時間だって愛だけれど本当にあなたのことを想うなら僕は消えなくてはならない、それこそが本当の愛なのだ、ということではないでしょうか。

AメロBメロは僕とあなたが過ごした時間の感情の揺れ動きを歌っている、と見ました。

最後にviviという単語ですがパッと出てきたのがvivid,vivianなど。vivianは人名で男女どちらでもあり得る名前です。vividは「鮮明な、はつらつな」という意味です。これ、「灰になりそうな」と対比してますね。はつらつとした少女を灰になりそうなまどろむ街に置いていく。

「僕」は本当は消えたくないというかこんな「灰になりそうな街」=「一般社会、世間」に、このはつらつとした愛している少女を置いていきたくない、というのが真意ではないでしょうか。いつかこの少女もつまらない「普通の大人」になってしまうのが分かっているから。

 

ここで考察終わります。

はっきりいってこの曲すごく考察が難しい曲です。Dメロの「溶けだした琥珀」はたぶん「足のないブロンズ」とつながっているというのは分かりますが、なぜ「足が無い」のか。なぜ魚が僕を見るのか。空から海に落ち、海に還るということなのか。(海は生命の母ですから)

踊りを踊った閑古鳥?静かなのか騒がしいのか。

なによりイマジナリーフレンドが消える時手紙なんて書くでしょうか?人格解離の人の中には全人格で情報や予定を共有する為にメモやメールを書く人はいます。

解離した人格が統合され消える歌、でも考察できそうな。

PVがあるにもかかわらず平沢進なみに分析しづらい歌でしたが私は子供時代の終焉の歌と解釈しました。

私は米津玄師さんの曲はこういう悲しげで切ないものが好きです。こういう系はあんまりないんですが。「アイネクライネ」もいつか分析したいですね。今のところ私は「アイネクライネ」は親子の愛の歌だと思っています。成長した娘から若き父親への歌。あるいは逆です。成長した息子から若き日の母への歌。

なぜ恋愛だと解釈しなかったかはその時の考察で語ります。

長々とお読みいただきありがとうございました。

ホームズって結局童貞なの?ゲイなの?

BBCSHERLOCKを「シャーロック」、シャーロック・ホームズその人を「ホームズ」、と呼んで話を進めます。ネタバレあり。

 

子どもの頃からホームズ好きで全巻読破したのですが、映画のホームズの中でも気に入っているのがBBCSHERLOCK。最近また見返しています。

世界観が19世紀ではなくて現代なのも身近に感じられて面白いです。日本の感覚で言うと、19世紀舞台の映画って時代劇みたいなものでしょうか。幕末志士とか尊王攘夷とか。

21世紀版シャーロックと「忌まわしき花嫁」で19世紀に戻ったシャーロックで部屋の内装が一緒なのに気づきましたか?(皆気付くよ)

19世紀の建物が21世紀に残っていても不思議でない国っていいですね、イギリス。日本だったら一部の名家ぐらいしか日本様式の家ってないんじゃないでしょうか。

 

それに英語の勉強にいいんですよね。特にホームズの英語は推理になるとかなり速いのでいいリスニング対策になります。全部はなかなか聞き取れませんが。

 

このBBC,SHERLOCKで特に好きな話が「ベルグレービアの醜聞」。原作だとボヘミアの醜聞ですね。ホームズを唯一打ち負かす女性、「アイリーン・アドラー」が出てくるのですが、この人がホームズの人間らしいところを引き出していく。

 

で、まず第一。「ホームズとアイリーンは恋愛感情がある?」「ホームズって童貞なの?」問題。

原作にはもちろん書いていないし、ホームズのセリフとして「恋愛は精密機械の中の砂粒」という発言がありますね。シャーロックでも言ってましたが。

シャーロックではワトスンがホームズの人間らしいところを引き出してきましたが、恋愛には至っていないと思われます。

今回登場したアイリーンはしょっぱなからホームズをやりこめましたね。裸で登場し、ホームズをまごつかせたり、彼を文字通り「打ちのめした」り。

写真の入ったスマホを自らホームズの元に贈って余裕を見せつけたり。ホームズはパスワードが分からずに悪戦苦闘したり。

 

彼女がワトスンと徹底的に違う面は、ワトスンはホームズより「格下」ですがアイリーンは対等、一時的には格上になり、ホームズを翻弄した点です。

 

彼は少々うぬぼれ屋な所があり、他の人間に翻弄されたり出し抜かれたり振り回されたりしたことはなかったわけです。

ホームズはこれを面白い、興味深いと感じたのではないでしょうか。

しかし、これだけでは恋愛感情には届きません。振り回してるだけならモリアーティだって一緒なわけですから。

ではアイリーンとモリアーティの違いは何か。やっぱり性別じゃないでしょうか。

 

原作ではホームズは少々女性を見下しています。まあ、19世紀の人ですから。しかし、アイリーンに出し抜かれて以降、その見方をやめたという設定になっています。

シャーロックでさすがにあからさまに女性を見下すシーンはないですが、無意識下で少しは「こともあろうに女が僕を翻弄するとは、面白い」という感情があったのではないでしょうか。

アイリーンがホームズに惹かれていくうちに、ホームズの心が全く動かなかったというストーリーよりはホームズも少しはアイリーンになびいた、という設定の方が面白い気がします。

アイリーンに対する、「面白い、興味深い」という感情がしだいに深くなっていき、「愛」と呼べるレベルまで達したとしてもおかしくないと思います。

 

かつ、ホームズが手元にスマホを所持しながらパスワードを破れない間はアイリーンはホームズより格上でした。しかし、ホームズがパスワードを破った瞬間、一気に窮地に立たされたのです。マイクロフトに保護されなければならないほどの窮地に。

この、「格上で少なからず好意と敬意を抱いていた相手が窮地に陥った」状況は人に「助けたい」という情をもたらします。その情は「愛」の一つと呼んでもいいのではないでしょうか。

 

で、結局ホームズは童貞なのか?

僕は違うと思います。なぜなら女の扱いをわかっている行動をとっているから。

どの話かは失念しましたが、ホームズがドアのロックを破るために社長秘書の女性と恋仲になる話がありましたね。ドアの前で指輪を出してプロポーズするあのシーンです。

女性と恋仲になれる程度には女性のことをわかっているわけです。

そして、アイリーンが裸で登場した時、ワトスンが言葉を失ったのに対し、ホームズはそこまで驚きませんでした。(偽名は飛びましたが)

童貞だったら視線ぐらいは泳ぐんじゃないでしょうか。

また、アイリーンに自分のコートを着せるとき、彼は後ろを向きましたね。あれはコートを着るときに身体を隠せなくなるからですよね。

一瞬でそこまでの気づかいを出来るのなら彼は女性経験はあると思います。

 

第二問題。「ホームズはゲイか?」

まず初めに述べておきますが、ワトスンは違うと思います。ワトスンは原作でもかなりの女好きですし、シャーロックでもたくさんの女性と恋仲になっています。ホームズのせいでそのぶん振られてるわけですが。

ホームズもたぶん違うでしょうね。本人が違うと言っていますし、アイリーンにあれだけ興味を示した(恋愛感情というよりは興味ですが)わけですし。

ホームズは恋愛より自分の興味のある道を一途に突っ走るタイプなので、女に興味がないというよりは恋愛に興味がないのだと思います。

 

ちなみに原作ではふたりが腕を組んで歩いている挿絵があったりしますが、あれは19世紀では普通の習慣らしいです。

 

しかし二人がゲイでないとすると腑に落ちないのが、どうしてあれだけゲイネタを入れてくるのか?

初期のピンク色の研究でもハドスンさんやカフェのマスターが二人をカップルだと思ったり、ホームズがワトスンに「誘ってくれるのはうれしいけど」と言うシーンがあったり。

バスカヴィルのハウンドで田舎に泊まった時も店主がゲイだったり、彼にダブルベッドがなくて悪いね、と言わせたり。

ワトスンが爆弾を巻かれて助かった後の一言で「君に暗いプールで服を脱がされるところを~」というセリフがあったり。

 

思いつくだけでこれだけゲイネタがあるのにレズネタといえばワトスンの姉ハリエットは女性と結婚していたこととアイリーンが女性とも「仕事」をしていたという点だけ。

ゲイネタと比べて圧倒的に少ないですよね。ハリエットは姿も見せてないですし。

深読みしなくても脚本側が「この二人(ホームズとワトスン)をそういう目で見てください」とリードしているように見えます。

 

結論を言えばこの二人はブロマンスだと思いますがこれだけゲイネタが多いのはなぜなのでしょうか。

ワトスンは「あなたはホームズにとっていい彼氏ね」と彼女に言われるほどホームズに尽くしていますし。

つまり、恋愛<<<二人の絆

という構図に描かれていますがこれは果たしてブロマンスの範疇なのか...?

日本の男女格差は別に男が優位なわけではない

日本の男女格差を端的に表すと、「男も女もそれぞれ別の問題で苦しみ、いがみあっている」です。

どちらも苦しんでいるという点においては平等ですねぇ。

もっと詳しく言いますと、男女とも「男はこうあるべき。」「女はこうあるべき。」に苦しんでいて、どちらもが「俺の方が、私の方が苦しいんだ!」と喧嘩している状態ということです。

 

例えば男の場合経済力です。やっぱり男は経済力がないと結婚しづらい。見た目が悪くても金があれば結婚できますが、金がなかったり主夫になったりすると苦しい立場に立たされます。

女の場合は見ためと年齢です。「結婚適齢期」なんて言葉がある様に、結婚するにはある程度の年齢でしておかなければならないという思想があります。

確かに子供を産みたいならある年齢までに結婚、妊娠する必要があるという考えは正しいですが、子どもを持たない場合、結婚に適齢期なんてあるわけないじゃないですか。

しかし、日本で子どもを産まない女はまだマイノリティですし、子供産めプレッシャーはこれからどんどん強くなるでしょうね、少子化で。

見た目に関しては、女だったら化粧をしてちゃんと着飾って当たり前という思想があります。女芸人が自分のブサイクをネタにして笑いが取れるのも「女は見た目が良くて当たり前」という概念があるからこそだと思います。

 

それと、女は若い子でも「男にサービスしてもらって当たり前」という考えを持っている人が多いです。

「男に守ってもらって当たり前。夜道が暗くて怖いので男に迎えに来てもらった(ほぼ初対面。ただの近所の人。)」

とか、

「女なんだから男におごってもらえばいいじゃーん。買い物袋とか持ってもらってあたりまえでしょー。」

とのたまった馬鹿を僕は二人ほど知っています。開いた口が塞がらないとはこのことかと。

これじゃあ結婚したくない男が増えてもしょうがないなと思いますね。

もちろん、夜道が怖いとか荷物が重くて持てないなんてことはあるでしょう。僕も元女なのでこの状況はよくわかります。

でもさ、迎えに来てもらったり荷物もってもらったりしたんならちゃんとお礼するのが当然だよね。なんで当たり前だと思ってるの?奴隷じゃあるまいし。

 

別に女を庇うわけじゃないんですが、これは日本の文化にも問題があると感じますね。

日本でサービスはタダです。正確にはタダじゃないんですが、タダだと思われています。スマイルは0円だし。レジの袋詰めは綺麗で速くて当たり前。

だから男が女にサービス(夜道を迎えに行くとか荷物を持つとか)もタダで当たり前。

 

今回は男女格差の問題でしたが、日本で今起きている問題(スパイト行動とか貧者の貧者叩きとか)は根本を突き詰めていくと日本の構造問題だと思います。

だから容易には解決しないでしょう。

劇薬として移民を入れるのも一つの手だと思います。最初は社会が大混乱してツイッターでは不満の嵐が吹き荒れるでしょう。(スーパーのレジが座っているだの愛想が悪いだの)

しかし、完璧を求める、完璧で当たり前という日本の構造を壊すにはこれしかないと思います。

僕は完璧で当たり前という思想は自分の首をも絞めていることにいつか多くの人が気付き、完璧を求めないという実践ができる未来を望みます。

なんで日本の俳優は皆同じ演技をするのか

僕は日本のドラマとか映画を最後まで見たことがありません。

理由は気持ち悪いから。いかにも「演技してます!」って感じでわざとらしくて笑っちゃう。

 

例えばミステリーで犯人が罪を告白するシーン。

男の場合、ポケットに手を突っ込んであごを突き出して

「ああ!俺がやったよ!」とえらそうに語る。途中でポケットから手を出し両手を肩の前で広げるジェスチャーをする。

ここまでもう決まってるじゃないですか。

 

あるいは、第三者が死体を発見するシーン。

男女混合の複数人が発見者の場合、ぜーったい女が「キャー」と金切声を上げ、男は目を見開いたり、座っている場合は中腰になる。

もうここまで見えてるんですよ。

最初からある程度読めてるストーリーなんか見ててもつまらないわけで。なので僕は日本の映画やドラマは嫌いです。こういう演技をしろと演劇学校で教わるんですかね。

 

でもね、これ俳優のせいだけじゃないんですよ。日本文化にそもそも「演技」というものが馴染まないのだと思います。

例えば、欧米の学者や人前に立つ人が話すシーンを思い浮かべてください。

皆声がワントーン下がったり、話し方が落ち着いたりする。

つまり、欧米はもともと「演技する」社会なのです。最初にジョークを言って楽しませるとかね。だからドラマや映画で演技をしてもわざとらしくならない。観る人が皆演技することに鳴れているから。

 

それと、日本のドラマ、映画はジェンダーが反映されてますね。

女はみんな「~よね。」「~だわ。」という不自然な話し方をするとか。そんな人今時オネエだけです。

さっきの死体発見シーンで言えば、悲鳴をあげて取り乱すのが女、そこまで騒がないのが男。

男は取り乱す女を庇うもの。

例えば発見者がツアーガイドと観光客の場合、立場で言えばガイドが客を守らなくてはいけない訳です。

しかし、ガイドが女で客が男の場合、客がガイドを庇います。

これっておかしいじゃないですか。

でも多くのドラマ、映画で普通に描かれてしまっている。

日本のドラマ、映画はある型にはまってしまっている。だからつまらないのです。

ジェンダーについてはまた後日書きます。

なぜ日本の景観は醜いか

今回は日本の街並みの話です。

はっきり言って、日本の街並みって美しくないですよね。

衛生の話ではありません。衛生面であれば日本の街はかなり綺麗です。パリの駅とかハンバーガーの包み紙があっちこっちに落ちてたりしますから。

でも、ヨーロッパの街並みが伝統的な建築様式の建物が立ち並んでいるのに対し、日本は味気ないビルばかり。

東京の街並みは綺麗になりつつあるといってもやっぱりビルなんですよね。

どこも同じ感じの。

しかもそのビルとビルの間に伝統的な様式のお寺が挟まれていたり。混ざりすぎというか。

 

僕はしばらくニュージーランドに住んでいたことがあるのですが、都市と郊外がはっきり分かれていて、郊外から都市に行く途中はひたすら道しかありませんでした。たまに動物園があったり発電所があったりしましたが店らしい店はなく、家は一軒もありませんでした。高速道路みたいな感じでした。

 

日本はなぜこんなにめちゃくちゃに建物を建ててしまったのか。

考えられる理由はいくつかあります。

 

まず、単純に人口が多くて住める場所が狭い。

日本の国土の7割は山だと言われるほど日本は平地の少ない国です。そりゃあビルみたいなマンション建てて居住面積を稼ぐしかないですね。豪華な1軒家とか建ててる場合じゃない。郊外と都市をはっきり分けるほどの面積の余裕はないわけです。

ちなみに、データをとってみました。2017年のものです。

人口密度

日本 335人/㎢

ニュージーランド 17人/㎢

アメリカ 33.7人/㎢

国土は

日本 378,000㎢

ニュージーランド 268,000㎢

アメリカ 9,834,000㎢ でした。

 

国土としては日本はニュージーランドより広いですが、先ほども言ったように7割山です。それにニュージーランドは人より羊が多いといわれる国ですから羊口密度も考慮にいれないといけないのかもしれないですね。

 

第二に、日本は戦争で焼け野原になった。

日本は太平洋戦争で東京、大阪といった主要都市まで空襲にあい、焼け野原になりました。そこから始まったのがまず経済の復興です。文化とか言ってる場合じゃない、まず稼がなきゃ。国民を食わせなきゃ。

そんな時に建物のデザインなんざごちゃごちゃいってられません。便利ならいいんです。もう二度と燃えない、倒れない頑丈な建物がいいんです。

そもそも日本家屋は「紙と木」の家でした。夏は涼しいが、燃えやすいし地震が来れば倒れる。じゃあもっと頑丈にビルにしようぜ、コンクリで固めようぜとなるのは合理的です。(芸術は合理性ではないですが)

 

第三に、日本はヨーロッパに支配されませんでした。(アメリカにはされましたが)東南アジアに欧米風の建物が残っているのはヨーロッパ支配の名残です。支配されていないのだからヨーロッパ風の建物を建てる必要が無かった。

 

第四に、単に日本の気候に合わない。

伝統的な日本家屋は風が通りやすくつくってあります。日本の夏は蒸し暑いのでヨーロッパ風の重圧な建物なんか建てたら湿気がたまってしょうがないんじゃないですかね。それにヨーロッパの伝統建築は隙間風が入って来たり虫が侵入しやすいそうです。

だったらコンクリでビルつくりますよね。

 

ちなみに、もし日本が焼け野原にならなかったら伝統的な日本家屋のままだったかと問われればそんなことはないと思います。

やっぱり少しずつビルになったと思いますよ。残念ながら。

人質と「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」

ずーっと昔の話をします。

といっても数百年さかのぼるわけではありません。

 

最近すっかり聞かなくなりましたが、ISを覚えていますか?たびたび世界各国の人を人質にとり、身代金を要求していたあの組織(国?)です。

ある時、日本人が捕まったことがありましたね。何人かいますが、僕に強い記憶を残したのは後藤さんです。

なぜか?

ネットで「国に迷惑をかけるな、自決しろ」という意見を見かけたからです。

これを見た時、パッと思い浮かんだのが「生きて虜囚の辱めを受けず」です。

 

太平洋戦争時、日本人は捕虜になる前に死んでしまう、捕虜になっても死んでしまうという現象が兵隊にも民間人にも起きました。

その理由はもっともらしいのが「生きて虜囚の辱めを受けず」という思想が国民全体に広がっていたため、というものですが僕はそれだけではないと思います。

 

人間は、というか生き物は命に執着するものですからいくらそんな教育(洗脳)をされていたとしてそれだけで多くの人(特に兵士としての教育を受けていない民間人)が命を捨てるものでしょうか。特攻隊だって大君のため、だけではなく家族のためにと飛び立った人も多かったと聞きます。

真実は、「生きて虜囚の辱めを受けずの思想がみんなに広まっているのに自分だけ生き残ったら家族がいじめられるかもしれない」ではなかったでしょうか。

確かに女性であれば暴行されるかもしれないという恐怖もあったでしょう。そこに生き残ったら家族がいじめられるという恐怖が重なって死を選んだのではないでしょうか。

 

この「生き残ったら、生きて帰ったら家族がいじめられるかも」という恐怖は現代でも生きています。

人質となった後藤さんがそう思ったかどうかはわかりません。でもネットで身代金は「国民の税金を使うな、迷惑だ。」とか「自分で払え。」などと言っている連中はもし後藤さんが生きて帰ってきたらいじめる気マンマンだったでしょうね。人質となった人は顔も名前の全世界に知られてますから。

これも以前安楽死の件で述べた通りスパイト行動にあたるのではないでしょうか。

「みんなの命を踏み台にお前だけ死なないのはずるい」が「みんなの金を使ってお前が助かるのはおかしい。みんなに迷惑だ。」になったのです。

命→金に変わっただけです。

 

前にツイッターでたしか「うちの祖父は赤紙が来たけど逃げて助かった」と発言した人が「みんなお国のために戦って死んだのにお前の祖父は卑怯だ」とバッシングされてましたね。

これも「みんなの命を踏み台にお前の祖父は生き残って恥を知れ!」ってことでしょ。やっぱりスパイト行動ですな。

日本で安楽死はまあ無理だよね

今回は安楽死とスパイト行動についてです。

 

橋田壽賀子という脚本家をご存知でしょうか?

おしん」の脚本を書いた人ですね。他にも有名な作品はありますが。

この人が以前「安楽死で死にたい」と発言したところ、世間から大バッシングを受けたことがあります。

僕は個人的には安楽死は選択肢のひとつとしてあって良いと考える賛成派なので、安楽死が嫌な人は選ばなければいいだけですから反対派の意見がよくわからなかったのですが、偶然「スパイト行動」という行動を知り「なるほど」と納得しました。

 

この人の安楽死発言へのバッシングとして

「死に逃げるな」とか

「もっと苦しんで頑張っている人に失礼だ」

という意見を聞きました。

 

まあ、前者の発言はいかにも日本らしいですね。精神論というか根性論というか。体育会系かな。

例えて言えばうつ病の人に「がんばれば治る!」って言っちゃうタイプ。後で説明しますがこれはスパイト行動です。

後者は前者よりいっそう意味がわかりません。もっと苦しんでいるって何?

苦しみ度合って数字で表現できるわけ?できますよ日本では。

この国では「つらいです。苦しいです。」と言うと必ず「お前より苦しんでる奴はたくさんいるんだ!」と言う人がいます。

そして苦しみを誰にも打ち明けずに死んでしまった人に対し、「つらかったね。がんばったね。」と言う人もいます。

 

つまり自分で苦しいと言える内はまだ苦しくないのだ、自分で助けを求められない状態(多くの場合は死)になってから初めて助けてもらえるのだ。

という思想です。この思想は結構どんな分野にでもありますよね。

児童虐待は子どもが死んでからじゃないとドアを破って家に突入できないとか。

ストーカーで被害届を出しても相手にされず、殺されて初めて捜査がスタートとか。

 

さて、安楽死の話に戻りますが、「もっと苦しんでいる人に失礼だから」安楽死はダメ。というのは何で失礼なのか。

例えば苦しみ度合60%のAさんと80%のBさんがいたとします。(日本では苦しみ度合いははかれますからね!)

Aさんが安楽死した場合、Bさんはかわいそうになるのか。

「私は頑張って生きてるのにAさんだけ死ねてずるい、あいつは私より苦しんでないのに」とか?

だったらBさんも安楽死を選べばいいじゃないですか。権利のひとつとして。

ちなみにこういう「あいつだけずるい、私が苦しんでいるのだからお前も苦しめ」というのをスパイト行為(行動)といいます。

 

ついでに言うと前者の「死に逃げるな」もスパイト行為に入ると僕は考えます。これって「みんな頑張って生きてるのにお前だけ死に逃げるのはずるいぞ!」ってことでしょ?

 

だから日本で安楽死は無理だよね、って話。