少年敗走記

脳みそをさらけ出すダンスホール。

障害者はこの世に「必要」なんだよ!

そう、障害者はこの世に必要なのです。なぜ?多様性のために。多くの人々が多様性を受け入れられるようになるために。

ここでは「命は大事」とか「人の命は地球よりも重い」みたいな所謂キレイゴトを言うつもりはありません。こういう意見はなかなか頭の固い人間には受け入れられないからです。

 

近年しばしばいわれる多様性はなんだか「英語を理解して外国人と仲よくしよう」みたいなただ楽しいだけの思想のように語られていますが、僕は本当の多様性とはもっと複雑で受け入れるのが難しく、人間の本質に揺さぶりをかけるものだと思います。

 

本当の多様性とは今まで社会から排除されてきた人々、障害者や精神病患者、犯罪加害者やその家族、LGBTXと同じ街で暮らします、ってことです。

あなたのマンションの隣の部屋にそういう人たちが住むってことです。

例えばあなたの部屋の隣に統合失調症の人が引っ越して来たら?皆怖いとおもうんじゃないですか?それは今まで統合失調症の人と接した経験がなく、ネットや本の知識でなんだか怖い精神病だ、くらいの認識しかないからでしょう。

 

僕には統合失調症の知り合いがいます。初めてその人と部屋で二人きりになった時、正直に言って恐怖を感じました。僕も統合失調症という病気は文字の知識でしか知らず、何をされるかわからないと感じたからです。

しかし、しばらくその人と会ううちにきちんとその人がどういう人なのかが分かり今は統合失調症という病気の名前で怯むことはありません。

もし僕が子どもの頃から当たり前に身の回りに精神病の人がいたら初めから偏見なしで接することができたのではないかと思います。

なぜなら僕は幼いころダウン症の友達がいたのですが他の健常児の友達と同じように接していました。というか僕はその子がダウン症だということも知らず、(そもそもダウン症自体を知らなかった)ちょっと変わってるけど優しい子だなーくらいに思っていたからです。

差別や偏見をもたないというのはそもそも「この人はダウン症」「この人は黒人」みたいなジャンル分けをしないということだと思います。

 

これは大学の時の経験ですがある時学外の人に「君に黒人の友達はいるか?」と聞かれてとっさに答えられなかったことがあります。

もちろん黒人の友達は何人かいたのですが、おもしろいもので仲が良くなればなるほど相手の人種や国籍なんかは見えなくなってしまうものなのです。

「あいつはアメリカ人で、黒人で」みたいな情報より「あいつはサッカーが好きでカレーは日本のよりスリランカのが好きなジェームズ」みたいな身近な情報にすりかわっていくのです。だから突然黒人の友達はいるか、と聞かれても思い出せなかったのです。しばらくたってから「あ!そういえばジェームズは黒人じゃん」みたいに思い出すのです。

初めてこの感覚を経験した時はものすごく面白く感じましたし、何より差別をなくす方法ってこれなのではないかと思いました。つまり、相手を良く知ってしまうこと。

 

障害者の話に戻りますが、僕は障害者だけでなく上にあげたこの世の中から排除してきた人たちと共に同じ街で暮らすために、「普通」の人たちを多様性に慣らすためにこういう人たちは必要なのです。

 

今の世の中はどんどん右翼化しマイノリティや多様性排除の方向に進んでいますがこういう傾向は普通の人たちの首をも絞めています。

だっていつだれがマイノリティになるか分かりゃしないんですから。障害者やLGBTXが街に普通に存在する世の中になればいざ自分が障害者になったり自分の子がLGBTXだったりしたときに隠さなくてよいし、相談しやすいし、何よりそれほど落ち込まなくてすむのではないでしょうか。少なくとも現実を知らないことで悪い方へ考えすぎることもなくなると思うのです。

以前、一橋の大学院でしたっけ、ゲイだとアウティング(勝手に言いふらされた)されて自殺した男子学生がいましたね。

もし僕が上で述べたように多様性が受け入れられた社会であったなら彼は死なずに済んだのではないでしょうか。彼は社会から放たれた弾丸に殺されたといっても過言ではないと思います。

 

つまり、この世に障害者やあらゆるマイノリティは必要なんだ、自分たちを普通だと思っている人々を多様性に慣らすための先生としてってこと。

 

余談ですが平沢進という音楽家がたまに自分が生まれ育った昔の亀有の話をすることがあります。この人の語る亀有はまさに多様性が存在した場所でした。キチガイ日本兵(差別ではなくこう呼ばれていた)ぜんちゃんや変わり者のアキラさんなど今の世の中なら真っ先に排除されてしまう人達とと共に亀有の人々は生きていたようです。今は単なるキレーな街になってしまったようでなんとも残念です。