ガイとサクラは対の存在か(カカシにとってのマイト・ガイとは)
2年後よりお久しぶりです。今この記事を読み返してみると確かに考察の甘いところがいくつかありましたね。コメントでもご指摘の通り「カカシにとっての最高の幸せは過去である」というのは確かに僕の決めつけが入っているように思えました。
「最高」かどうかはカカシにしかわからない以上僕が決めつけるべきではなかったですね。
さて、今回はカカシにとってのマイト・ガイを考察してみます。
しかし、僕が原作を読んだのがずいぶん前(下手したら2年前)な上、ガイは本編でもそれほど深く掘り下げられていないキャラなので半分以上僕の妄想大爆発です。まったく一ミリも原作に書かれていないことを言い出しますので二次創作ぐらいの気持ちで読んでください。それをご承知の上で読み、コメントいただきたいと思います。読んだ後の苦情は受け付けません。荒らしも反応しませんので。
かつ、僕はNARUTOのアニメは観ていませんしBORUTOも読んでいません。NARUTOの原作だけが資料です。
さて、カカシにとってのガイを考察する前にまず木の葉におけるスリーマンセルの特徴を述べておきます。
第7班のようにスリーマンセルは文字通り3人1組のチームのように見えますが、実は2+1なのではないかと思います。
まずカカシ班が アスマ班が ミナト班が
ナルトーサスケ チョウジーシカマル オビトーカカシ
↑ ↑ ↑
サクラ いの リン
です。
時代をまたいでますがあしからず。紅班は原作でもそこまで細かく描かれていないのでとりあえずおいておきましょう。
このチームを見るとまず男2女1の編成、かつ女キャラがサポートという形をとっているのがわかります。
次に左の男キャラ(ナルト、チョウジ、オビト)がちょっとおバカで明るいキャラ、右の男キャラ(サスケ、シカマル、カカシ)がクールな知能系です。
NARUTOのストーリー内ではっきり対比されているスリーマンセルがカカシ班とミナト班です。つまりナルト=オビト、サスケ=カカシ、サクラ=リンです。
しかし、決定的に違うのがミナト班はカカシ以外全員亡くなっているということ。
ここから僕の妄想が大爆発しますが、カカシ一人になったミナト班にガイの存在を加えたら?
カカシ班にサイが加わったように。
以前の記事で僕はカカシの救われた姿がサイなのでは、と考察しましたがその救われたという陽の要素がガイ要素由来であるとしたら?
「何言ってるんだってばよ」と思うでしょ?
僕も思います。これ以上うまく言語化するのは至難の業なのですが、つまり
ナルトーサスケ オビトーカカシ
↑ ←サイ ↑ ←ガイ
サクラ リン
(カカシ班) (ミナト班)
という図式です。時系列としては新←古です。
で、ここからもっと妄想大爆発です。ではガイ→サイとつながった明るさの遺伝(便宜上こう呼びます)は誰からガイへとつながったか。
リンではないでしょうか。
はぁ?って思うでしょ。僕も思います。
先ほどカカシ班とミナト班は対比されていると書きましたがその対比の中でさらに対比が起きていると考えられないでしょうか。
ナルトーサスケ オビト ?ーカカシ
↑ ↑
サクラ リン ガイ
(カカシ班) (暫定的に新ミナト班とします)
オビトは子供時代で死んだ(はずの)オビトと考えてください。トビのほうではなく。
の図があるとしてサクラとガイが対比です。なぜなら性別が逆だから。
サクラとガイを比べてみてください。見事に真逆です。
サクラは女性で医療系サポート忍者。本来は後方支援向き。(怪力パンチあるけど)その手で人を治し、癒す人。インテリです。
ガイは男性で体術系で前線で戦う肉体派忍者。その手でものを壊す人。熱血です。
そして何より、救いたかった人を救えた人と救えなかった人。
サクラは最終的に救いたかったサスケを救い、結婚までします。ガイは救いたかったカカシを救えず暗部に入るカカシを見守ることしかできなかった人。
また、この二人は「託した人」でもあります。
サクラはナルトに一度はサスケを託しますが最後には救うためにともに戦います。
ガイはカカシを救えずおそらくナルトに託したのではないでしょうか。
つまりサクラは時系列として
救いたい人をナルトに託す→最後には自ら救いに行く
これに対してガイは
救いたい人を救いに行く→できずにナルトに託す
ここも真逆です。
要はサクラとガイは根っこ「あの人を救いたい」という思いは共通ですが、そこからの生きざまや能力が見事に逆なのです。
そしてなによりサスケ(カカシ)に対する態度も逆です。
サクラはサスケに対して里抜けの夜、「行かないで」と泣きつきすがることができました。
それに対し、ガイはカカシに対しすがることはできません。
なぜならサクラとサスケの関係が恋愛だとしたらガイとカカシはライバルの関係だから。ここも逆ですし、ここにちょっとナルトとサスケの関係も見ることができます。新ミナト班ではオビトにあたる人がいませんがガイとカカシが男同士であるのでナルトーサスケのライバルの関係もここに見出すことができると思います。
ナルトーサスケ オビト ガイ'ーカカシ
↑ ↑
サクラ リン ガイ
つまりカカシーガイの関係は単にサスケーナルトの関係だけでなくスリーマンセルすべての関係を二人でできてしまうのではないでしょうか。ただしナルト=ガイというわけにはいきません。なぜならガイはカカシを救えなかったから。ガイ'としておきます。
ただこう考えると一つ困ったのがナルトーサクラの関係です。ナルトとサクラは純粋な愛、友情、仲間という明るい感情ですがこれをカカシとガイに当てはめるとガイ'ーガイになってしまうので.....。
ガイ'ーガイを一人の人間の2面性と考えればガイ'はガイの熱血な面、ノーマルガイはガイのカカシを救いたかった面と考えればあるいはいけるかもしれません。ちょっと無理やりですが。
最後に少しひどいことをいうと新ミナト班はナルト達第7班になれなかった姿ではないでしょうか。
ナルトがサスケを救えたのに対し、ガイはカカシの支えにはなれましたが救えはしませんでした。これがガイがナルトになれなかったということだと思います。
第7班でもサスケを救ったのは最終的にナルトです。サクラではありません。もちろんサクラもサポートはしましたが。ガイは立ち位置としてはサクラの位置なのでカカシを救うことはできなかったのだと思います。
もし、新ミナト班にナルトにあたる人、つまり子供オビトの後継者がいたならば、きっとカカシは救われたかもしれませんね。そう考えると切ないです。
さて、長々この考察をお読みくださりありがとうございました。最初と途中で申し上げた通りこの考察はもはや考察というより僕の妄想の大爆発の跡地みたいなものですので最初のとおり二次創作ぐらいの心構えで読んだほうがいいと思います。読後の苦情は受け付けませんので。
蟲師ギンコの男っぽさ
蟲師の解説本「連綴」を読みながら蟲師のアニメを見返しています。蟲師のアニメは原作に忠実につくってありますが、それでも動きや色、声がつくことで原作にはない解釈ができたりするものですね。
その一つにこの連綴にある「ギンコは普通の兄ちゃん」というのはアニメではより顕著に出ていると思います。ギンコは男相手には容赦ないというか、乱暴なのに女相手だと優しい気づかいを見せたりするところとか。
例えば「枕小路」でジンを火事の家から連れ出すのはいいがそのあと地面に放り出して火を消しに行く。ジンが地面に頭をぶつけるシーンもちゃんと描かれてるんですよね。
「雨が来る虹が立つ」でも虹郎を夏の炎天下で空を見張らせたり(自分は日陰にいて「ちゃんと見張ってろよ」なんてちょとひどくない?)虹郎が虹蛇に触ってしまったときも肩をつかんで地面に引き倒して助けたり。助け方が乱暴なんですよね。その時のセリフ「ばかやろが。どうともねぇか。」もまさしく相手が男だからでしょうね。女相手だったら「おい、大丈夫か」くらいになりそうです。
女相手だと結構肩入れするし、助け方も優しい。「瞼の光」でも目をなくしたスイに自分の義眼をあげたり「虚繭取り」の綺にも自分の人生を歩ませるために虚穴に連れて行ってあげたり。しかも一緒に入ってあげる。
この、同性相手だと気取らない、飾らないが異性相手だと優しく接するところが自然な自然さというか、作者は女性なのに(アニメの監督は男性だけど)わざとらしくない男っぽさが出ていて面白いなぁと感じます。
「アナザー・カントリー」を今更観た
古き良き英国のパブリックスクールを舞台とした映画「アナザー・カントリー」を今更観てみました。アナザー・カントリーといえば同性愛のテーマがやたらと浮き彫りにされていますが、僕の印象としては「伝統に縛られた不自由な世界で若者はいかに生きるか」がテーマだったように思います。共産主義に賛同する(当時のイギリスではとんでもないこと)学生も出てきますし、学内での教練といった軍隊と言う不自由さの象徴も登場します。
さて、なんで今更この古い映画を観たのか。まず初めに言っておくと僕はBLはあまり好きではありません。(自分がLGBTのくせしてね。)
そもそも同性だろうが異性だろうが恋愛モノって観ていてつまらないと思うのでBLだろうがNLだろうがGLだろうが自らすすんで読むことはほとんどありません。
ですが、最初に述べた「縛られた不自由さの中でいかに生きるか」というテーマが僕は実は大好きなのです。それは身分かもしれないし、人種かもしれないし、失った大切な思い出かもしれないし、生まれながらに背負った障害かもしれない。その中の一つが同性愛だと思います。そういうわけで今更ながらアナザー・カントリーを観てみました。
あらすじなんかは調べれば出てくるのでここでは書きません。この映画の中で最も美しいと感じたのはハーコートとベネットが夜の礼拝堂?かどこかで身を寄せ合い、語り合うシーンです。会話自体は全く甘い恋の睦言でも何でもないんですが、このハーコート役の役者の演技のうまいことうまいこと。
一瞬彼の青い瞳が涙できらりと光るシーンがあります。その時の切なげな物憂い表情。帰りたくないのに帰らなければならない。そしてその後の永遠の別れをすでに知っているかのような、惹きこまれる表情です。
そういえば彼らキスもしてないんですよね。この身を寄せ合い、語り合うのが最大の愛情表現。縛られた世界で生きる抑圧による美しさ、伝統に縛られ不自由な中の耽美さが良く出ている表現だと思います。
かつ、映画の中で何度も流れる'I vow to thee my country'ですが、これはジュピターの惑星でも有名ですね。この曲に詩を付けたのがイギリスの外交官だとか。歌詞を見れば愛国歌だとすぐに分かります。
この映画はソ連のスパイになった主人公が過去を思い出すという語り口で始まる映画なのでまさにこの曲はぴったり。なぜ彼が国を売ったのか、祖国に牙をむいたのかが分かっていくとこのI vow to thee my countryは皮肉ですし、映画のタイトル「アナザー・カントリー」の意味も分かってきます。
この「アナザー・カントリー」は I vow to thee my countryの歌詞 'And there's another country, I've heard of long ago...'に出てくる言葉です。「誰にも知られることのない国がある、その道は静かで穏やかで平和へと繋がっている・・・」というような歌詞です。この意味をふまえて映画「アナザー・カントリー」を観ると監督が描きたかった内容が見えてくるようです。
この英国で認められなかった共産主義、同性愛はきっといつかどこかのまだ見ぬ国で受け入れられる時が来るだろう.....といったようなことでしょうか?
まあ現代を見ればそんな国はどこにもないわけですが。
あ、あと少年好きの僕としては時々可愛いショタが出てくるので満足でした。ウォトートン可愛い。彼と、あと物語の序盤でリネン室の階段の上で湯がぬるいと言いに来たあの少年が可愛かったです。始め女性の寮母か女中だと思いました。見た目は普通の(といっても美少年)男の子なんですが、声が女の子のように可愛いです。名前も出てこない役ですがあのシーンだけ何度も見てもいいほどかわいい子です。
I vow to thee my countryで最もおすすめなのがLiberaが歌うものです。Winter Songsというアルバムに入っているので是非。
「ポピュラー対位法」読んだけど日本語が分からない
音楽理論の本、対位法について書いてある「ポピュラー対位法」を読んでいるんですが、この本日本語が下手すぎる。
分からない文章というのは三種類あって
1.専門用語で煙に巻くタイプ
2.文法が滅茶苦茶、省略された言葉が多いタイプ
3.指示語が多すぎるタイプ(それにあたる、みたいな文章)
ですがこの本は2に当たります。主語を言え!日本語は主語や目的語を省略してしまうという傾向のある言語だと思いますが、その典型例のような文章です。かつ間違ってる情報が多い。
例えばGsus4と言いつつ楽譜には「ソ、レ、ファ、ド」の4つの音が書かれていたり(これはG7sus4だよね?)
24ページにある「前のコードのコードトーン(3度か6度)が残り」というのは何の前のコードなの?
x→Gsus4→G7ってこと?
じゃあそのxにあたるコードを書いてくれないと前のコードのコードトーンが残ってるかどうか読者には分からないと思うよ。
そもそも17ページの楽譜の下に書いてある数字は度数を表しているというけれどト音とへ音でオクターブあるのに8度以内に直されると見づらいんだけどなぁ。
楽譜の視覚情報と度数の情報が一致しないから読者は混乱しやすいよ。
僕はまあ、せっかく買ったし良いところもある本だと思うのでこのまま読み進めようと思いますが音楽理論をまだあまりやっていない人には勧めません。そこそこ他の音楽理論が分かってないと訳が分からない本だと思います。
かつ、日本語が母語でない人にも勧めません。よくある、省略された言葉が多すぎて「読む」というよりは「こういうことを言いたいんじゃないかと推理する」本、著者の中で当たり前だと思っていることが前提とされて解説、表記されておらず不親切な本だと思います。悪いけど。
平沢進の音楽と出会った経緯
僕はこの世に13万人いるといわれている馬の骨の一部でありGN団の一員でもあるわけですが、この人を知ったのは9年前。
どっかで話したかもしれませんがここでもう一度丁寧、なぜこの人に出会ったかを話します。
そのためにはまず声優さんの話をしなければなりません。事の発端は代永翼さんという声優です。そのころ両声類の歌い手にハマっておりその情報網のどこかで「代永翼さんという声優が歌うときめきの導火線というカバーが本当に女性のように聞こえる」という話をきいたのです。youtubeで検索しても違法アップロードなどはされておらず音源を入手するために「新・百歌声爛ー男性声優編ー」を入手し聞きました。男性声優がアニソンのメドレーを歌うCDです。
で、このCDは代永さん以外の声優さんも歌っているわけで、せっかく買ったのだから最初から全部聞くでしょ?でも古いアニメの曲が多いので知らない歌ばっかりでつまんないんですが律儀に最初から全部聞いたのです。
そうしたら安元洋貴さんのトラックまできたときになにやら壮大でかっこいい音楽が聞こえてきたのです。それがベルセルクのForces。
もちろんオケは師匠ではなくカラオケのようなアレンジでしたが十分原曲のかっこよさは残っているわけです。興奮して歌詞カードを見ると「作詞作曲:平沢進」。
あとはネットで「平沢進 ベルセルク」で検索、「救済の技法」ゲット。
当時はまだAmazonのアカウント持ってなかったのでCD屋さんに行きアマゾンのページ見せて「これください」→「置いてません」→取り寄せ、です。
救済の技法にはForcesがボーナストラックとしてついており、Forcesありverとなしverがあるので「ボーナストラック入ってるほうね!」と念押しして取り寄せてもらったのを覚えています。
で、せっかく買った救済の技法は最初から聞くでしょ?そうするとますますこの平沢進と言う人が気になるわけです。
どうせならこの人を最初から知ろう、と次に買ったアルバムがP-MODELの「ランドセル」。
今考えると平沢ソロから初期P-MODELに飛ぶのは間違っているわけですが当時はそんなことは露知らず。
当時は「ランドセル」は全く好きではありませんでした。平沢ソロのあの雄大さ、懐かしさはどこへやら。
障害者はこの世に「必要」なんだよ!
そう、障害者はこの世に必要なのです。なぜ?多様性のために。多くの人々が多様性を受け入れられるようになるために。
ここでは「命は大事」とか「人の命は地球よりも重い」みたいな所謂キレイゴトを言うつもりはありません。こういう意見はなかなか頭の固い人間には受け入れられないからです。
近年しばしばいわれる多様性はなんだか「英語を理解して外国人と仲よくしよう」みたいなただ楽しいだけの思想のように語られていますが、僕は本当の多様性とはもっと複雑で受け入れるのが難しく、人間の本質に揺さぶりをかけるものだと思います。
本当の多様性とは今まで社会から排除されてきた人々、障害者や精神病患者、犯罪加害者やその家族、LGBTXと同じ街で暮らします、ってことです。
あなたのマンションの隣の部屋にそういう人たちが住むってことです。
例えばあなたの部屋の隣に統合失調症の人が引っ越して来たら?皆怖いとおもうんじゃないですか?それは今まで統合失調症の人と接した経験がなく、ネットや本の知識でなんだか怖い精神病だ、くらいの認識しかないからでしょう。
僕には統合失調症の知り合いがいます。初めてその人と部屋で二人きりになった時、正直に言って恐怖を感じました。僕も統合失調症という病気は文字の知識でしか知らず、何をされるかわからないと感じたからです。
しかし、しばらくその人と会ううちにきちんとその人がどういう人なのかが分かり今は統合失調症という病気の名前で怯むことはありません。
もし僕が子どもの頃から当たり前に身の回りに精神病の人がいたら初めから偏見なしで接することができたのではないかと思います。
なぜなら僕は幼いころダウン症の友達がいたのですが他の健常児の友達と同じように接していました。というか僕はその子がダウン症だということも知らず、(そもそもダウン症自体を知らなかった)ちょっと変わってるけど優しい子だなーくらいに思っていたからです。
差別や偏見をもたないというのはそもそも「この人はダウン症」「この人は黒人」みたいなジャンル分けをしないということだと思います。
これは大学の時の経験ですがある時学外の人に「君に黒人の友達はいるか?」と聞かれてとっさに答えられなかったことがあります。
もちろん黒人の友達は何人かいたのですが、おもしろいもので仲が良くなればなるほど相手の人種や国籍なんかは見えなくなってしまうものなのです。
「あいつはアメリカ人で、黒人で」みたいな情報より「あいつはサッカーが好きでカレーは日本のよりスリランカのが好きなジェームズ」みたいな身近な情報にすりかわっていくのです。だから突然黒人の友達はいるか、と聞かれても思い出せなかったのです。しばらくたってから「あ!そういえばジェームズは黒人じゃん」みたいに思い出すのです。
初めてこの感覚を経験した時はものすごく面白く感じましたし、何より差別をなくす方法ってこれなのではないかと思いました。つまり、相手を良く知ってしまうこと。
障害者の話に戻りますが、僕は障害者だけでなく上にあげたこの世の中から排除してきた人たちと共に同じ街で暮らすために、「普通」の人たちを多様性に慣らすためにこういう人たちは必要なのです。
今の世の中はどんどん右翼化しマイノリティや多様性排除の方向に進んでいますがこういう傾向は普通の人たちの首をも絞めています。
だっていつだれがマイノリティになるか分かりゃしないんですから。障害者やLGBTXが街に普通に存在する世の中になればいざ自分が障害者になったり自分の子がLGBTXだったりしたときに隠さなくてよいし、相談しやすいし、何よりそれほど落ち込まなくてすむのではないでしょうか。少なくとも現実を知らないことで悪い方へ考えすぎることもなくなると思うのです。
以前、一橋の大学院でしたっけ、ゲイだとアウティング(勝手に言いふらされた)されて自殺した男子学生がいましたね。
もし僕が上で述べたように多様性が受け入れられた社会であったなら彼は死なずに済んだのではないでしょうか。彼は社会から放たれた弾丸に殺されたといっても過言ではないと思います。
つまり、この世に障害者やあらゆるマイノリティは必要なんだ、自分たちを普通だと思っている人々を多様性に慣らすための先生としてってこと。
余談ですが平沢進という音楽家がたまに自分が生まれ育った昔の亀有の話をすることがあります。この人の語る亀有はまさに多様性が存在した場所でした。キチガイ日本兵(差別ではなくこう呼ばれていた)ぜんちゃんや変わり者のアキラさんなど今の世の中なら真っ先に排除されてしまう人達とと共に亀有の人々は生きていたようです。今は単なるキレーな街になってしまったようでなんとも残念です。
DTMプラグインと音楽使いヒラサワ
タイトル通り。「来なかった近未来」の話だけ聞きたい人は一番下まで素っ飛ばしてください。
まず問題としては
オンラインインストールの場合
- 64bit: C:\\ProgramFiles\vstplugins
- 32bit: C:\\ProgramFiles (x86)\vstplugins
のファイルにインストールされるとあるがされていない。Cにwavesという新たなファイルがつくられそこに入っているがvstプラグインは見当たらず。「waves」→「Plug-Ins V10」にGOLDに入っているとされるエフェクターの名前が表示されているが、例えばディエッサーで、
「DeEsser.bundle」→「Contents」→「Linux64」→このフォルダは空です。
となっている。全てのエフェクターがそうである。
かつ、オンラインインストール後、Waves CentralのEasy install &activate onthis computer に'There are no licenses on your License Cloud.'とある。つまりおめーのライセンスクラウドにねーからEasy Install はつかえねーよ、とのこと。
オフラインインストールも試したがインストーラーというファイルはインストールされるもののその中にインストーラーはないという・・・哲学か。
それと、Manage Licensesのselect sourceに僕のPCが認識されていない。ネットで検索してもたいていの人のWaves Centralにはその人のPCが認識されているのだが僕の場合ライセンスが勝手にUntitledに入ってしまう。My License cloudには移せるのだが(それをやるとthere are no..という上記のエラーは出なくなる)そこまでである。
インストールできないのでアクティベーションもできない。(というより僕のPCがuntitledと表示されており、wavesのサイトのmy productsを見るとそのuntitledにアクティベートされている)
最後の手段としてgoldのupgradeは行っていない。
Media Integrationに問い合わせているもののなにせ正月なんで返信はまだない。
こういうときは平沢進の「来なかった近未来」の電子書籍を読むのだ。その中ではヒラサワがワケノワカラナイamigaソフトと格闘し、アメリカのサポートと英語で四苦八苦しながらやり取りしている様が読めるのでwaves goldくらいは何ともないのだ。
ヒラサワの苦労に比べれば!
なにせ公衆電話でアメリカに国際電話をかけたり(アヤシイ英語で)、メールがないのでFaxでやりとりしたりあっちこっちが不良品だったり。
みんんさもプラグインのインストールにひっかかったら心を落ち着けて来なかった近未来を読むといい。多少はイライラしなくなる、はず。