KAITO V3 本気で調声その1
今までもVOCALOIDの調声はいじることにはいじってたんですが、つい先日vsqxというutauのustにあたるものがあると知り、神調教の調声をDAW上で見てみました。
驚きましたね。
まずノートの分割が細かい。
「コンクリートが」が「こoouんくりitとoが」と打ち込んであってまるでutauの様。
ボカロはV3、V4あたりまで進化するとベタ打ちでも結構歌ってくれちゃうのでまさかここまでフリーソフトutauのように打ち込むとは想像してなかったです。
次に目についたのはやはり主にいじってるパラメータはダイナミクスとピッチ。
ダナミクスとは発声の強弱でピッチはそのまま声の揺らぎ。
ダイナミクスは上手く使わないと声が大きくなったり小さくなったりして不自然になんですがもっと難しいのがピッチです。
ピッチは下手にいじると音痴になります。
調声に慣れないうちはいっそベタ打ちの方がうまかったな、ってことになりがちです。
でもいじらないことにはいつまでたってもベタ打ちから脱却できないので・・・
それに歌声ライブラリの特徴も調声を左右します。
神調教師のvsqxを色々なライブラリに流し込んで分かったのですが、
やっぱりKAITOは声が優しすぎる。
僕が主に使っているライブラリは鏡音リン、レンV4X、v4flower、KAITO(V3)です。
KAITO以外パワー系のボカロだと感じます。
ロック系のvsqxを流し込んで聞いてみると前者3人がかすれたりいかにも「歌い上げている」感じで歌うのに対し、KAITOは何というか、ちょっと遠くで歌っているような良く言えば優しい、悪く言えば張のない声だなと感じます。
ボカロの調声を覚えたい人には向かないかもしれません。ダイナミクスをどういじっても張り上げる声にはならないですから。
でも好きなんですよね、この青い兄さん。
僕が初めて買ったボカロでstudio one とpiapro studioの区別もついてなかったころから一緒にDTMを始めた仲間ですからね。
ベタ打ちではじめて「らー♪」と歌わせたときの感動は忘れません。
それに彼の強みはやはり男声という点でしょう。レンは中の人が女性なので。
もともと声が高めで高音域も得意でかつ、男声なので低音が無理がない。こもらない。
男の子っぽい声の他のシンガー、レンやflowerはやはり低音が苦手だと感じています。胸で発声するこもった低音になりますね。低いからよけい聞き取りづらいし。
僕が兄さんを迎えたころはV3が最新だったのですがいまやV5まで出ているそうで兄さんの強みだった英語も歌える、は最早当たり前になりましたね。
ミクなんか中国語も歌えるし。
クリプトンでは失敗作扱いだった兄さん、V3まで出て結構出世しましたがもうこれ以降のバージョンは出ないのでしょうか。
V4、V5とか出たら何が追加されるんでしょうね。
中国語?もっとパワーのあるライブラリとか?
それだと他の男声ボカロとかぶるんでしょうかね。
宮野真守さん「孤島の鬼」朗読
海王社文庫から出ている声優さんが古典を読むシリーズ。
今回は乱歩です。
乱歩といえば怪奇小説ですが、この孤島の鬼は同性愛要素も入っています。
登場人物は二人。箕浦と諸戸。箕浦のほうが美少年で諸戸の方がこの箕浦に惚れています。そこに不具者製造(現代では差別言葉ですが)というおぞましい要素が加わっています。
この朗読も全文ではなく二人が洞窟に閉じ込められてから「地獄の底のめんないちどり」までというどうしてその場面を選んだのかという場面の朗読です。
どうせなら最後の諸戸のセリフを声で聴きたかった。
あの切ない諸戸の心情を。
この朗読はほぼ諸戸のセリフで進みます。狂気を抑えるような、死の淵で罪を告白する高ぶる感情を抑える話し方。
寝物語には絶対に向きません。暗闇で聞くには怖すぎる。
バックの音楽も切なさや怖さよりも不気味さを出しています。
乱歩好きならおすすめ。
森田成一さん朗読、高村光太郎
文豪とアルケミストというゲームから文豪たちの詩をそのキャラの声優さんが朗読するmp3がaudiobookにあるのを見つけました。
僕はこのゲームはやっていないのですが、単なる声優さんの朗読として聞きました。
なのでゲームの話はできません。
森田さんといえばブリーチの一護やタイバニのバーナビー、BASARAの前田慶次など。
バーナビーを除くと、この人は熱血タイプ「うぉぉぉぉらぁ!」って感じの少年漫画タイプのキャラの人だと思っていたのでどう朗読するのか気になっていたのですが、なんというか一護と同じ人には聞こえません。
地声とも違う、低音で囁く読み方。寝物語にぴったりです。
最初クレジットが間違っているのではないかと思ったほど別人に聞えます。
おすすめは「花のひらくやうに」。疲れた時に聞くとすべて放り出して眠りたくなります。
また、最も感情をこめて読んでいるのが「ぼろぼろな駝鳥」
動物園に閉じ込められた駝鳥を憐れんで怒っている詩なのですが、読み方がかなり怖いです。
一瞬静かに読んだり、「これはもう」で感情が高ぶって一瞬止まる読み方、「人間よ、もうよせ」でかすれる読み方。
たった1分9秒の中にこれだけの技が詰まっています。
ちょっと一護のがなるような声が混じっているような気がしますが、一護とはやっぱり違いますね。
バーナビーが歳をとって壮年になったらこんなダンディな低音になるかも。
飯島晶子さん「永訣の朝」朗読
この音源、どこで見つけたか覚えていないんですが朗読の中ではかなりうまいです。
初、女性の朗読を聞きました。
この「永訣の朝」は宮沢賢治の詩なのですが、賢治目線で話が進み、途中に妹トシ子のセリフが入ります。
このトシ子のセリフの読み方が切ないこと・・・
トシ子は岩手の方言で「あめゆじゅ、とてちて、けんじゃ・・・(雨雪とってきて、賢治)」と病に苦しみながら絞り出すように言うのですが、その力のない言い方、「けんじゃ・・・」のかすれ具合が本当に死に行くトシ子のようです。
バックの音楽も切なさを加えていていい演出です。
鈴木達央さん朗読「高瀬舟」感想
声優さんが朗読するCDや音源は世間にいろいろありますが、古典を読んでくれているものはなかなかありません。
しかし、海王社文庫から出ている古典シリーズはたくさんの声優さん(男性のみですが)朗読してくれています。全文じゃないのが残念ですが。
文庫本に8mmCDがついており、僕の様な若造は「こんな小さいCDどうやって聞くの?」と始め謎でしたがパソコンであっさり聞けました。
さて、たっつんといえば僕の中ではロックなイメージが強い人です。うたプリとかね。Freeのまこちゃんみたいなかわいい声は珍しいらしいですが、この朗読はこっちの優しく、囁くタイプの読み方です。ただし低音。
声優さんの朗読には二通りあって、第三者として「読み上げる」タイプ。アナウンサーというか、ナレーションっぽい読み方。もう一つが登場人物に感情移入し、声色を変えて喋る、いわゆる「演ずる」タイプ。
今回のたっつんは「演ずる」タイプの読み方。
この「高瀬舟」は主な登場人物が庄兵衛(喜助を護送する役人)、喜助(弟殺しの犯人)、弟、ばあさん。(ばあさんはしゃべらないのでおいておく)
この中で明らかに違う喋り方をしているのが喜助。
喜助の喋り方がゆっくりで優しいのです。「わたくしわぁ」のように小さい「ぁ」に低音が残る感じです。
ただ、少し気になったのが「し」の音の時空気が「ひゅっ」と鳴る点です。
もともとサ行の音は抜ける性質を持つので(人力だと最も取りにくい音素)当たり前なんですがちょっとその鳴り具合が強いかな、と。
ただしそれを補う程に落ち着いた品のある声だと思います。
庄兵衛は役人らしく低音で張ったような、はきはき喋るのに対し、罪人喜助は総てを悟ったような、あきらめたような、ゆったりとした思い出すような喋り方。
こんな声で喜助を演じられるとどうしても喜助に味方したくなります。
バックの悲しい音楽とも相まってより切ない話に感じられます。
今まで聞いた声優さんの朗読の中でも1,2を争うほど惹きこまれる朗読です。
たっつん好きならもちろん、高瀬舟に興味があるなら文字で読むよりずっと頭に入ってきます。ゆっくりな喋りなので古めかしい日本語でも分かりやすいです。
目の前に護送される船が見えてきますよ、本当に。
実写版「蟲師」はなぜつまらないか
久々にアニメの実写版を見ました。少し古いですが2006年の「蟲師」。オダギリジョーが主演の映画です。
アニメの実写というのはたいていが失敗する、といわれていますが御多分に漏れずこれも「ああ、失敗してんなぁ」って感じの映画でした。以下辛口の批評です。
いや、いいところもたくさんあったんですよ?
オダギリジョーのギンコがなかなかはまり役だとか、舞台が古い日本なので世界観に違和感がなく、その時代の一般人の「小汚さ」がよく出てるとか。ギンコのいかにもウィッグの銀髪もかえって良い感じでした。生まれつきの白髪ではなく蟲のせいで色が抜けたわけですから不自然な白になるのはもっともかな、と。子供のうちに白になったのだから髪に若さが出て銀になるのもさもありなん、ってことで。
あと虹郎がなかなかいいキャラでしたね。
でも、これおかしいんじゃないのって点もかなりあって。
まずストーリーの進み方が「とびとび」すぎ。
旅をする蟲師ギンコ(現代)→子供時代(ヨキ)→また現代に戻って→子供時代終結→現代っていう進み方なんですが、あっちこっちとびすぎていてストーリーに入り込みづらい。もうちょっとまとめたほうがよかったんじゃない。
まあ2時間という制約の中で蟲師を知らない人にも分からせなきゃいけないわけですから多少不自然なのは仕方が無いにしても2つのストーリーを無理やり1つにつないでいるような違和感は否めなかったです。
あと、これが最大の問題点ですが、この監督女を描くのが下手すぎやしません?ステレオタイプすぎるというか、女を知らないというか。
「ギンコが淡幽のことが好き」
僕は原作至上主義ではないですが実写映画の恋仲でない男女を恋愛関係にするという手法が嫌いです。単純すぎて。
この2人の関係って決して恋仲じゃないんですよ。一所にとどまれないギンコと一所にとどまるしかない淡幽っていう相反する似た者同士、しかも二人とも宿命、運命を背負う恋愛程度では描けないはずの深いつながりのある2人なんです。
それを男女だから、といってすーぐ恋愛に落とし込む映画ははっきり言って監督が低レベルか童貞かだと思います。別に蟲師に限らないですが。
あと、なんで「俺は淡幽に好きだといえないんだ」ってセリフを終わりの14分前に言わせるのか。結局そのフラグ回収できてないし。
虹郎が「淡幽と一緒に村に遊びに来い」って言うことで回収した気なんでしょうか?
原作でもこのセリフ淡幽の「お前(ギンコ)と一緒に旅がしたい」としてあるんですが、これは状況とその後のセリフからして「まあ無理だがなぁ」って意味で言ってるんですね。実写で虹郎が言うセリフではないかな、と。
でもまぁ虹郎も「無理だろうけれど」という想いを含みつつ必死に叫んでるとも取れるのでここはまだマシです。
それと結局虹郎がどういう人間で、なぜ虹を探しているのかに言及していない。狂言回しとしては使いやすかったのかもしれないですが虹郎を掘り下げていない点においてもつまらないですね。
そして何より腹が立つのはヌイをただの狂人にしたこと。蟲師の世界観を壊してまで。
おそらく「母の愛に狂った女」を描きたかったのかもしれませんが、これまたヌイもそういう人じゃないんですよ。
原作ではヌイは夫と子供を銀蟲、トコヤミによって失くしその原因を研究していくうちに自分も銀蟲に侵され、最期光となり消える、というキャラクターです。
ヌイは自分が銀蟲に侵されたときから死を覚悟していた人です。ヨキに出会うことでその決心が少し揺らぎますが結局夫と息子を想い、トコヤミに飲まれることを選びます。
それを実写ではトコヤミに飲まれたが「偶然(ここがまた甘っちょろい実写くささ!)生き延び、ヨキを探す狂人」と化します。
ここに「亡き息子の面影をヨキに見た母としてのヌイ」を描きたかったのでしょうが、ヌイは研究者であり家族のある意味での復讐に生きていた人です。原作でも帯の細い一見男物に見える着物を着ていたように「母性を少しヨキに向けつつも結局死を選ぶ」という自分の生き方を通した人です。
実写でヌイに女物の着物を着せたのは
筋の通った生き方<母としての想い
を描きたかったのかもしれないですが。ヌイが男だったら筋の通った生き方(原作にあるような)描き方をしたのでしょうが、女=亡き息子に似た子にほだされ潔く死なずその子を追い求め狂人と化す、にしたところが女のステレオタイプすぎる描き方というか「まあ女だからな」って感じに見えて下手さを感じますね。
「淡幽は恋愛」「ヌイは母性」で描いてしまったところが「女ってのは恋愛と母性本能を描きゃぁいいんだよ」って感じで中学生男子の発想っぽい。
さてはこの監督女性経験ないな。
蟲師の世界では「銀蟲に憑かれたものはいずれトコヤミに飲まれる」「トコヤミから抜け出すには自分に名前を付けること。(ただしそれ以前の記憶は失う)」が絶対条件です。
この条件から読み手は「ギンコはヌイを覚えていない」「ギンコもいずれ(ヌイがそうなったように)トコヤミに飲まれ光になる」「ギンコ本人はそれを知っているのかどうか分からない」というギンコの先行きの暗さと切なさを見出します。
それをあんなにあっさりギンコの子供時代の記憶を戻してしまっていいのか。自分がヨキであったことも忘れているはずのギンコが狩房家でトコヤミの記録を読んだ時、ヨキという名に反応する。「見知らぬトコヤミに憑かれた女」にヨキとよばれあっさりヌイを想い出す。
なんだ、トコヤミってたいしたことないじゃん。って思ってしまうんじゃ?
そのほかよくわからない設定がいくつか。そのほとんどがクライマックス、終わりも終わりの場面ばかりですが。
「ヌイと一緒に旅をしている口のきけない男は誰か」
もし元の夫なら息子はどうしたのか。なぜ口がきけないのか。原作通りトコヤミに飲まれたとしてなぜ生きていられたのか。
「口のきけない男が殺した女は誰か」
「ギンコとヌイが小屋で対面するシーンで光ったのはヌイが光になったのではないのか」
ヌイ(銀蟲、トコヤミに憑かれている)とギンコ(銀蟲に憑かれている)が対面すればストーリー上ギンコがヌイに飲まれて消えるはずですがなぜかヌイが光る。のに消えない。最後ギンコは光脈筋から蟲を呼びヌイの周りに集めていますがあれは何をしているのか。光酒を浴びさせることでヌイを取り戻そうとしているのか。
あの時点でヌイは銀蟲になりトコヤミに飲まれているはずですから光として消えなければならないんですけどね。精神的に「消えた」のなら元には戻せないはずです。
「虚繭とり」であったように蟲のルールは絶対ですから。
もしかしたらギンコなりの埋葬なんでしょうか。
「虹郎は蟲が見えるのか、見えないのか」
この設定ブレッブレですよね。虹蛇が見えるのは蟲が見える者だけです。「赤ん坊のころ俺だけが虹蛇に反応していた」という原作の虹郎のセリフから原作では彼は蟲が見える人です。
実写では虹蛇が見えていることから彼は蟲が見えるはずですが、なぜかたくさんの蟲が光脈筋に集まっていくシーンでは見えていない。淡幽の蟲封じの動く文字が見えているのだから見えるはずなんですがね。
最後に「光脈筋が意外と汚い。」
もちろん生命の源が流れこむ川ですから蟲が集まっているのは当然です。そういう意味ではなくて、アニメであれだけ美しく輝いていた光脈筋が濁った泥みたいな色。なぜもっと綺麗に描かなかったのか。
漫画、アニメの実写なんて期待しないで見る方が、もっと言えば見ない方がいいんでしょうが僕はこの実写が好きではありません。
蟲師の時代背景を上手く描いている反面、世界観がぶれ過ぎで。
蟲師を知っている人は見ない方がいいと思います。僕みたいに細かい設定にこだわる人はもちろん、ストーリー重視の人は。
蟲師の時代背景を見たいなら見てもいいと思います。おすすめはしませんが。
やっぱり二次元は二次元のまま楽しむのが一番ですね。
子連れ専用車で赤ちゃんに優しい国?逆だよ
ハフィントンポストの4年も前の記事ですが、この人の言説が僕には何言ってるのかよくわかりませんでした。
日本は、赤ちゃんに優しい国になれるか、というタイトルで「赤ちゃんが電車で泣いて白い目で見られるのなら子連れ専用車をつくろう」という意見なんですが。
それってますます赤ちゃんに厳しい国になるよね。
僕は今の日本の問題は様々なバックグラウンドを持った人が分断されてお互いをよく知らないこと、だと思ってます。
例えば、障碍者施設が襲撃された犯人の「障害者なんていなくなればいい」という供述もまさに障害者のことを知らない勝手な意見じゃないでしょうか。
彼は障碍者施設で働いていたらしいですが入居者とじっくり話をしたことがあったのかどうか。
子連れ専用車をもしつくると以下のような問題が出てくると思います。
・慌てて乗った車両が普通車両でそこで赤ん坊が泣きだした場合今よりもっと白い目で見られる。
→人々がますます赤ちゃんと接する機会がなく、慣れないから。
・赤ちゃんを他の車両に「隔離」する政策が通った場合、今度は他のマイノリティを排除せよという意見が出てくる。
例えば「車いすは邪魔だから専用車両に」「車内で叫ぶ障害者を専用車両に」「臭い奴は電車に乗るな!」とかね。
電車内で赤ちゃんが泣いてうるさいから隔離しろ、というのはたかが電車の問題じゃないんです。
社会からマイノリティを排除して「健全でまっとうな健常者」しか生きてはならない国をつくることに近づいていくと僕は思います。
これでは赤ちゃんに優しい国、どころか全てのマイノリティに厳しい国の出来上がりです。
確かに子連れへの冷たい目を避けるために専用車を作るというのは一時的にはいい方法かもしれません。
しかし、一度この手をつかってしまうと国全体が子連れに慣れることができず結果として赤ちゃんに厳しい国になってしまうのです。
だから僕は子連れ専用車はつくらないほうがいいと思います。
その代わり、嫌な目にあったお母さん、お父さんは声を上げるのです。ツイッターでもブログでもなんでもいいですから。
確かに劇的に状況は変化しないし、嫌な目にあった人たちが報われるときは彼らが生きている間にはこないかもしれません。
でも自分たちの子が子育てする番になり「あのとき親世代が闘ってくれたから私たちは暖かな社会で子育てができる」と言ってもらえたら、最高じゃないですか?