少年敗走記

脳みそをさらけ出すダンスホール。

実写版「蟲師」はなぜつまらないか

久々にアニメの実写版を見ました。少し古いですが2006年の「蟲師」。オダギリジョーが主演の映画です。

 

アニメの実写というのはたいていが失敗する、といわれていますが御多分に漏れずこれも「ああ、失敗してんなぁ」って感じの映画でした。以下辛口の批評です。

 

いや、いいところもたくさんあったんですよ?

オダギリジョーのギンコがなかなかはまり役だとか、舞台が古い日本なので世界観に違和感がなく、その時代の一般人の「小汚さ」がよく出てるとか。ギンコのいかにもウィッグの銀髪もかえって良い感じでした。生まれつきの白髪ではなく蟲のせいで色が抜けたわけですから不自然な白になるのはもっともかな、と。子供のうちに白になったのだから髪に若さが出て銀になるのもさもありなん、ってことで。

あと虹郎がなかなかいいキャラでしたね。

 

でも、これおかしいんじゃないのって点もかなりあって。

まずストーリーの進み方が「とびとび」すぎ。

旅をする蟲師ギンコ(現代)→子供時代(ヨキ)→また現代に戻って→子供時代終結→現代っていう進み方なんですが、あっちこっちとびすぎていてストーリーに入り込みづらい。もうちょっとまとめたほうがよかったんじゃない。

まあ2時間という制約の中で蟲師を知らない人にも分からせなきゃいけないわけですから多少不自然なのは仕方が無いにしても2つのストーリーを無理やり1つにつないでいるような違和感は否めなかったです。

 

あと、これが最大の問題点ですが、この監督女を描くのが下手すぎやしません?ステレオタイプすぎるというか、女を知らないというか。

「ギンコが淡幽のことが好き」

僕は原作至上主義ではないですが実写映画の恋仲でない男女を恋愛関係にするという手法が嫌いです。単純すぎて。

 

この2人の関係って決して恋仲じゃないんですよ。一所にとどまれないギンコと一所にとどまるしかない淡幽っていう相反する似た者同士、しかも二人とも宿命、運命を背負う恋愛程度では描けないはずの深いつながりのある2人なんです。

それを男女だから、といってすーぐ恋愛に落とし込む映画ははっきり言って監督が低レベルか童貞かだと思います。別に蟲師に限らないですが。

 

あと、なんで「俺は淡幽に好きだといえないんだ」ってセリフを終わりの14分前に言わせるのか。結局そのフラグ回収できてないし。

虹郎が「淡幽と一緒に村に遊びに来い」って言うことで回収した気なんでしょうか?

原作でもこのセリフ淡幽の「お前(ギンコ)と一緒に旅がしたい」としてあるんですが、これは状況とその後のセリフからして「まあ無理だがなぁ」って意味で言ってるんですね。実写で虹郎が言うセリフではないかな、と。

でもまぁ虹郎も「無理だろうけれど」という想いを含みつつ必死に叫んでるとも取れるのでここはまだマシです。

それと結局虹郎がどういう人間で、なぜ虹を探しているのかに言及していない。狂言回しとしては使いやすかったのかもしれないですが虹郎を掘り下げていない点においてもつまらないですね。

 

そして何より腹が立つのはヌイをただの狂人にしたこと。蟲師の世界観を壊してまで。

おそらく「母の愛に狂った女」を描きたかったのかもしれませんが、これまたヌイもそういう人じゃないんですよ。

原作ではヌイは夫と子供を銀蟲、トコヤミによって失くしその原因を研究していくうちに自分も銀蟲に侵され、最期光となり消える、というキャラクターです。

ヌイは自分が銀蟲に侵されたときから死を覚悟していた人です。ヨキに出会うことでその決心が少し揺らぎますが結局夫と息子を想い、トコヤミに飲まれることを選びます。

 

それを実写ではトコヤミに飲まれたが「偶然(ここがまた甘っちょろい実写くささ!)生き延び、ヨキを探す狂人」と化します。

ここに「亡き息子の面影をヨキに見た母としてのヌイ」を描きたかったのでしょうが、ヌイは研究者であり家族のある意味での復讐に生きていた人です。原作でも帯の細い一見男物に見える着物を着ていたように「母性を少しヨキに向けつつも結局死を選ぶ」という自分の生き方を通した人です。

実写でヌイに女物の着物を着せたのは

筋の通った生き方<母としての想い

を描きたかったのかもしれないですが。ヌイが男だったら筋の通った生き方(原作にあるような)描き方をしたのでしょうが、女=亡き息子に似た子にほだされ潔く死なずその子を追い求め狂人と化す、にしたところが女のステレオタイプすぎる描き方というか「まあ女だからな」って感じに見えて下手さを感じますね。

 

「淡幽は恋愛」「ヌイは母性」で描いてしまったところが「女ってのは恋愛と母性本能を描きゃぁいいんだよ」って感じで中学生男子の発想っぽい。

さてはこの監督女性経験ないな。

 

蟲師の世界では「銀蟲に憑かれたものはいずれトコヤミに飲まれる」「トコヤミから抜け出すには自分に名前を付けること。(ただしそれ以前の記憶は失う)」が絶対条件です。

この条件から読み手は「ギンコはヌイを覚えていない」「ギンコもいずれ(ヌイがそうなったように)トコヤミに飲まれ光になる」「ギンコ本人はそれを知っているのかどうか分からない」というギンコの先行きの暗さと切なさを見出します。

 

それをあんなにあっさりギンコの子供時代の記憶を戻してしまっていいのか。自分がヨキであったことも忘れているはずのギンコが狩房家でトコヤミの記録を読んだ時、ヨキという名に反応する。「見知らぬトコヤミに憑かれた女」にヨキとよばれあっさりヌイを想い出す。

なんだ、トコヤミってたいしたことないじゃん。って思ってしまうんじゃ?

 

そのほかよくわからない設定がいくつか。そのほとんどがクライマックス、終わりも終わりの場面ばかりですが。

「ヌイと一緒に旅をしている口のきけない男は誰か」

もし元の夫なら息子はどうしたのか。なぜ口がきけないのか。原作通りトコヤミに飲まれたとしてなぜ生きていられたのか。

「口のきけない男が殺した女は誰か」

「ギンコとヌイが小屋で対面するシーンで光ったのはヌイが光になったのではないのか」

ヌイ(銀蟲、トコヤミに憑かれている)とギンコ(銀蟲に憑かれている)が対面すればストーリー上ギンコがヌイに飲まれて消えるはずですがなぜかヌイが光る。のに消えない。最後ギンコは光脈筋から蟲を呼びヌイの周りに集めていますがあれは何をしているのか。光酒を浴びさせることでヌイを取り戻そうとしているのか。

あの時点でヌイは銀蟲になりトコヤミに飲まれているはずですから光として消えなければならないんですけどね。精神的に「消えた」のなら元には戻せないはずです。

「虚繭とり」であったように蟲のルールは絶対ですから。

 

もしかしたらギンコなりの埋葬なんでしょうか。

 

「虹郎は蟲が見えるのか、見えないのか」

この設定ブレッブレですよね。虹蛇が見えるのは蟲が見える者だけです。「赤ん坊のころ俺だけが虹蛇に反応していた」という原作の虹郎のセリフから原作では彼は蟲が見える人です。

実写では虹蛇が見えていることから彼は蟲が見えるはずですが、なぜかたくさんの蟲が光脈筋に集まっていくシーンでは見えていない。淡幽の蟲封じの動く文字が見えているのだから見えるはずなんですがね。

 

最後に「光脈筋が意外と汚い。」

もちろん生命の源が流れこむ川ですから蟲が集まっているのは当然です。そういう意味ではなくて、アニメであれだけ美しく輝いていた光脈筋が濁った泥みたいな色。なぜもっと綺麗に描かなかったのか。

 

漫画、アニメの実写なんて期待しないで見る方が、もっと言えば見ない方がいいんでしょうが僕はこの実写が好きではありません。

蟲師の時代背景を上手く描いている反面、世界観がぶれ過ぎで。

蟲師を知っている人は見ない方がいいと思います。僕みたいに細かい設定にこだわる人はもちろん、ストーリー重視の人は。

蟲師の時代背景を見たいなら見てもいいと思います。おすすめはしませんが。

やっぱり二次元は二次元のまま楽しむのが一番ですね。

子連れ専用車で赤ちゃんに優しい国?逆だよ

日本は、赤ちゃんに優しい国になれるか

 

ハフィントンポストの4年も前の記事ですが、この人の言説が僕には何言ってるのかよくわかりませんでした。

 

日本は、赤ちゃんに優しい国になれるか、というタイトルで「赤ちゃんが電車で泣いて白い目で見られるのなら子連れ専用車をつくろう」という意見なんですが。

それってますます赤ちゃんに厳しい国になるよね。

 

僕は今の日本の問題は様々なバックグラウンドを持った人が分断されてお互いをよく知らないこと、だと思ってます。

例えば、障碍者施設が襲撃された犯人の「障害者なんていなくなればいい」という供述もまさに障害者のことを知らない勝手な意見じゃないでしょうか。

彼は障碍者施設で働いていたらしいですが入居者とじっくり話をしたことがあったのかどうか。

 

子連れ専用車をもしつくると以下のような問題が出てくると思います。

・慌てて乗った車両が普通車両でそこで赤ん坊が泣きだした場合今よりもっと白い目で見られる。

→人々がますます赤ちゃんと接する機会がなく、慣れないから。

 

・赤ちゃんを他の車両に「隔離」する政策が通った場合、今度は他のマイノリティを排除せよという意見が出てくる。

例えば「車いすは邪魔だから専用車両に」「車内で叫ぶ障害者を専用車両に」「臭い奴は電車に乗るな!」とかね。

 

電車内で赤ちゃんが泣いてうるさいから隔離しろ、というのはたかが電車の問題じゃないんです。

社会からマイノリティを排除して「健全でまっとうな健常者」しか生きてはならない国をつくることに近づいていくと僕は思います。

 

これでは赤ちゃんに優しい国、どころか全てのマイノリティに厳しい国の出来上がりです。

 

確かに子連れへの冷たい目を避けるために専用車を作るというのは一時的にはいい方法かもしれません。

しかし、一度この手をつかってしまうと国全体が子連れに慣れることができず結果として赤ちゃんに厳しい国になってしまうのです。

 

だから僕は子連れ専用車はつくらないほうがいいと思います。

その代わり、嫌な目にあったお母さん、お父さんは声を上げるのです。ツイッターでもブログでもなんでもいいですから。

確かに劇的に状況は変化しないし、嫌な目にあった人たちが報われるときは彼らが生きている間にはこないかもしれません。

でも自分たちの子が子育てする番になり「あのとき親世代が闘ってくれたから私たちは暖かな社会で子育てができる」と言ってもらえたら、最高じゃないですか?

蟲師「雷の袂」に見る親子の形

蟲師は昔から大人向けの作品だと思っていましたが、続や続2になるにつれて世の理不尽とそれに折り合いをつけて必死に生きる人々の現実を描く話が多くなっていくように思えます。

 

今回は僕が蟲師で最も好きで何度も見たい話、「雷の袂」について。ネタバレありです。

この回では、ギンコはわき役というか、立役者でしたね。主人公が少年「レキ」と母の「しの」。

 

この二人、実の親子なんですがうまくいっていません。望まぬ結婚、妊娠でレキを産んだしのと、母から愛されないレキを中心に二人の目線から物語は展開していきます。

 

印象的なシーンは、過去に幼いレキを雷の中、木に縛り付けるしの。

悲しいことですが、人間は望まない子供を愛することはできません。しのも泣き叫ぶレキを見て楽しんでいたわけではなく、家の中で泣き声に耳を塞ぎます。これがまたリアルな虐待の形だなぁ。誰も楽しくて自分の子を虐待するんじゃないんです。でもやめられない、どうしていいのか分からない。

 

ギンコが関わってくる現在の時間軸ではしのはあからさまな虐待をしているわけではありませんが、息子の命が危ないというのに全く焦りも緊張もみせません。

ここが、うまくこの親子の関係を描いていると思います。

 

最も印象に残った場面は、やはりあのだだっ広い野原での二人+ギンコのやりとり。

どうしても息子を愛せないから、一緒に死のうとレキを抱きしめるしの。

母を突き飛ばして逃げるレキ。

この場面に、愛憎哀しみ入り混じる人間模様が表れていると思いませんか?

 

しのがもし本当にレキをなんとも思っていないのなら、なぜ自分が雷に打たれるリスクを冒してまでレキに近づいたのか。なぜレキだけ死ねばいい、ではなく一緒に死のうなのか。

 

レキがもししのをなんとも思っていないのなら、なぜ母を突き飛ばしたのか。もちろん自分を愛してくれない母に抱きしめられたくなんかないという思いもあったでしょうが、しのを雷から守るためという理由もあったのです。

 

世間でいう幸せいっぱいの親子の愛では決してありませんが、この親子にも愛という言葉では片づけられないほどの思いがあったということでしょう。

少なくともこの二人はお互いを本当にどうでもいいとは思ってないです。

 

それと、案外見逃しがちですがこの野原でのギンコのセリフから、彼が母に愛されていた普通の感覚を持つ人だということがうかがえます。

レキに言い返され黙り込むしのに「もっとちゃんと言ってやれ!」「お前に生きていてほしいんだって言ってやれ!」と。

 

これは親子関係がうまくいっている人でないと言えないセリフです。特に「お前に生きていてほしい」なんてセリフをさらっと言えちゃうところが。

こういういわゆる「キレイゴト」のセリフは愛されなかった人はどうしても言えません。自分で自分の言葉が嘘だとわかってしまうからです。嘘に聞えてしまうからです。

自分の音痴な歌声を聴いていられないように、思ってもいないきれいごとは人間言えないものです。

 

そもそもギンコは少年時代、母と仲良く行商しているシーンがありましたし、母を亡くして泣いている場面もありました。後に母代わりとなるぬいにもそっけないやり方ではありましたが可愛がってもらっていましたし。

子供時代に大人と愛情の関係を結ぶ、という点においてはギンコはあまり問題なかったわけです。

 

雷の袂の話に戻ります。

そして何より納得がいくのはこの二人のその後。

レキは親戚の家に預けられ、この母子は距離を置いて生きていくことになった、と。

 

こういう終わり方はやはり大人向けの作品でしかできません。普通のアニメだったらその後母子が和解しなければ視聴者から文句が出るでしょうから。

 

蟲師は耳障りの良い理想論ではなくあくまで現実的な答えを出すところを僕は気に入っています。

親子の形も常に一緒にいてニコニコ幸せでなくったっていいわけです。

距離をとってお互い冷静に上手く付き合えるならそのほうが無理やり一緒に住むよりいいわけです。

 

そういう感情でなく理性で判断した結論を回答として出せるのがやはり蟲師の魅力だと思います。

 

ただやっぱりアニメだな、と思うのはあれだけ邪険にされたレキがあまりスレてないところ。

普通あれだけ母に愛されなくて雷の被害から他の人を守ろうとは思わないでしょう。むしろ他者をワザと巻き込んでいい気味だ、ぐらいは思うはずです。

 

僕だったらわざと雷を家に落とす、くらいはやりそうです・・・

 

レキが生まれつきそういうスレにくい性格だったのだ、といわれればそれまでですが。

 

蟲師はイイハナシで終わらせるより、その時その時でギンコが出した答えに視聴者が納得したり疑問を持ったりしてストーリーが終わる事が多いですが、その中でもこの話はなかなか現実に即していて考えさせられるものだと思います。

 

まだ見ていない方、どうぞ見てみてください。

 

 

 

木ノ葉の里の民度は良くも悪くも普通(NARUTO)

NARUTO世界に残された伏線というか、謎というものを二つばかり解き明かしてみようかと。

 

・サクラは幻術タイプ

・英雄の息子、ナルトが忌み嫌われている設定

 

まず、サクラの方からですが、カカシの言った「サクラは幻術タイプ」というのは間違っていないと思います。

自来也によれば幻術とは「相手のチャクラをコントロールするかなりインテリな技なのでナルトには無理。」

 

サクラはもともとチャクラコントロールがうまく、それを医療忍術に生かしたわけですから、幻術には向いていたでしょう。

そっちの道を選ばず医療系を選んだだけで。

 

二つ目、火影の息子、里をバケ狐から救った英雄の息子、そして何より里の為にそのバケ狐の入れ物になってくれた子、ナルトが幼少期に嫌われていたのはおかしいか?

いや、おかしくないでしょう。むしろそんなもんです人間なんて。

 

おそらく里の人間、九尾襲来当時のことを詳しく知っていたのは三代目火影や一部の上忍くらいだったのだと思われます。里のほとんどの人間は

バケ狐が突然里を襲ってきた

      ↓

自分の子や両親が狐と戦って死んだ

      ↓

その狐はナルトという少年の中に封印された

くらいの認識でしょう。

 

憎い復讐対象が目に見えない形でナルトの中にいるのであればナルトに憎しみの目が向けられるのはある意味人間らしいです。

ネットで犯罪加害者の家族がバッシングされるような。犯罪者の子がいじめられるような。

 

むしろイルカ先生のように両親を狐に殺されながらナルトに優しく接することができる人のほうがまれでしょう。

もしかしたらイルカ先生だって幼いころは狐を、ナルトを恨んだかもしれません。

 

イルカ先生にはテストでいい点をとろうが体術でアカデミーでほめられようが聞いてくれる人がいないのです。

がらんとした暗い家の中で思ったかもしれません。

「バケ狐さえいなければ、こんな寂しい思いをすることはなかったのに。」

「バケ狐が憎い。」「あの狐は今ある少年の中に封印されているらしい。」

 

・・・「その子を殺せば両親の復讐ができる。」

いや、イルカ先生でなくとも、九尾襲来で家族を亡くした人の多くがこう思っていてもおかしくないのです。

「バケ狐を殺したい!復讐だ!その狐を封印されている子どもを殺せばいい!その子を殺せば狐も死ぬんじゃないか?」と。

 

だからこそ三代目火影はナルトを保護下に置くべきだったと思います。ナルトは怨みを買って殺される可能性だってあったのですから、むしろ冷たい眼で見られ陰口をたたかれるくらいで済んだのは悲しいですがまだ良かった方です。

 

我愛羅は人柱力としての力量を測るために風影に殺されかけましたからね。

 

ナルトも我愛羅も仕方のない状況と時世でしたが、人柱力に子どもを選ぶのは賢明とは言えません。

だからこそ全尾獣と人柱力にナルトの中で会った時、我愛羅とナルト以外は全員大人だったのでしょう。

NARUTO世界と現代国際社会の共通点

暁は彼ら本人の説明によると

・国家の軍備縮小に伴い戦争を請け負う組織を目指す。

・国家の軍備が縮小され国々が軍事力を失うのを狙い、その後尾獣を暴れさせ世界を征服する。

ですが、これを現代国際社会に置き換えると

国家の軍備縮小に伴いPMC組織が拡大させ、核兵器を持ち、軍事力を失った国家を攻撃、世界を征服ってことですよね。

つまり

暁=PMC

尾獣=核兵器

です。

 

実際のPMC組織は要人の護衛や戦闘の後方支援を仕事とするので直接の戦闘はできないことになっていますが、それも時間の問題でしょう。

これから戦争をする上で大切なのは国民に戦争に興味を持たせないこと、です。

ベトナム戦争のように自国民の若者が大勢死んで行ってはどうしても厭戦反戦運動が起きます。

しかし、PMC隊員というのは第三世界の貧しい人々、進んで組織に加入した元軍人などです。

 

ですから先進国がPMC組織を使おうと、国民は関心を持ちません。誰が遠い異国の貧乏人の命を気にかけるでしょうか?自ら入った元軍人など、死のうが傷つこうが自己責任というやつです。

 

いつかきっと、PMCが戦争する未来は来るでしょう。核兵器を隠し持つ巨大なPMCだって出てこないと言えません。

そういう意味ではNARUTOは予言の書です。

平和に固執するあまり、自分の身を自分で守ることを放棄した国に未来はありません。自衛のための戦争をできず、他国に国防を任せ信じ切っている国はもはや属国です。

 

木ノ葉の里が尾獣に襲われたように、日本に核兵器が落ちる日はこのままでは未来のどこかに確実に来るでしょう。

つまり、軍隊は必要だ。力でしか押さえつけられない奴らはいる。

アニメにおける少年役の声優は男性か女性か

僕は普段アニメは気に入った作品を繰り返し見るのであんまり新しいアニメに手を出さないです。最近またNARUTOが再熱してきましてニコ動でナルトのラジオを聴いたりしているのですが、どうしても気になることが。別にNARUTOに限らないんですが、

 

少年役に女性声優を使うか、男性声優を使うかは何の差なのか?

 

ということ。

僕はショタコンなので二次性徴前の十代半ばくらいまでは女性声優の少年声のほうが好きなんですが、キャラによっては十代どころか一桁代の年齢でも男性声優を使っていたりしますよね?

 

刀剣乱舞のような女性向けゲームならイベントの為に女性を使えないという業界の事情はわかるんですが、そうでないアニメも女性のショタ声を使わないキャラはいたりします。

 

NARUTOBORUTOで考えるとショタ声が

ナルト、木ノ葉丸、ボルト、デンキ

で、

男性声優が

イタチ、サスケ、シカマル、チョウジ、我愛羅、ミツキ、いのじん。カカシはアニメと映画で違いますが。

 

ショタに男性声優使ってるキャラの方が多いんですね、こう見ていくと。

 

もちろん予算の問題はあるでしょう。男の子の声変わり前と後で全員声優を分けていたら単純に人件費2倍になりますから。

 

それと、キャラの性格もあるでしょう。子供っぽくない少年、例えばシカマルやサスケは一期の12歳の時点で男性声優でもおかしくはないです。

逆に元気いっぱい、子供っぽいいかにも少年漫画の主人公といった少年は女性声優の少年声の方が映えるでしょう。

そこに未熟さやそこからうまれる将来への希望が見えるからだと思います。

 

ただ、サスケのアカデミー時代、あの惨劇の夜の時の声。あの時点でサスケは8歳なので、さすがに男性声優では無理があったのでは、と思っています。

杉山さんのことは大好きですし、この人がサスケで本当に良かったと感じていますがさすがに8歳の子どもの声には合わなかったような気がします。

 

もっと言えば暗部時代のイタチの声。

イタチに英郎さんはさすがに無理だったのでは、と感じます。大人のイタチは英郎さんで大正解でしたが、やっぱり子供時代は女性声優を使ってほしかった。

 

イタチに女性の細い少年声を使うことで暗部として認められている彼の未熟な部分を出してほしかったです。

こんなに実力もあって暗部でも一目置かれるこの少年も、やはり子供なんだというギャップが欲しかったですね。

暗部時代のイタチ、11歳ですよ?

 

11歳で石川さんの低音色気ボイスは合わないでしょう。

ヒノエ、カカシは女性声優を使ったのだからイタチにも高い女性声優を使ってほしかった。

 

高い忍としての技術×まだ子供の未熟さ、って組み合わせ最高じゃないですか。

そこにこんな子どもを危険な戦場に送らなければならない悲しさや現実の不条理さをショタ声で描き出して欲しかったです。

 

この点を主張するならもちろんサスケやシカマルも女性声優が良かったですね。

どんなに実力があっても、忍の技術が高くても頭が良くてもサスケやシカマルはまだ子供である、ってギャップをショタ声で出してほしかったです。

NARUTOの世界の子どもに関する社会制度

NARUTOの世界って結構子供に対しても容赦ない世界ですよね。

もちろん忍(兵士)の世界なのでシビアなのは当然なんですが、それもだんだん国の平和と共に緩和している気がします。木ノ葉創設期からBORUTOまで見ていくとよくわかります。

 

例えば、

・木ノ葉の里創設期 [マダラ、柱間時代]

生まれた子供全員は生き延びられない。5人兄弟で3人殺されるような。

目の前で敵の兄弟を殺し、敵に兄弟を殺され。

 

マダラと柱間が子どもが殺されない世界を夢見たのもさもありなんでしょう。

 

・忍界大戦期[カカシ、ミナト、イタチ時代]

子供を兵士として戦わせる。戦争が国同士の総力戦っぽくなっているのである意味創設期より幅広い戦いになっている。

 

・ナルト時代

大規模な戦争は失くなっていくものの、まだまだ抜け忍や組織的な戦闘はある。

クライマックスでは木ノ葉の里壊滅状態。

 

・ボルト時代

現代の日本のように戦闘はほとんどなくなっている。しかし、戦争の遺恨や力を持てあました人間が暴れている。

 

特に問題なのはカカシ時代、ナルト時代の「親を失った孤児を一人で生活させる」システム。

 

おそらくカカシ、イルカ、ナルト、サスケ、ネジがそういう生活をしていたのではないかと。

これ、忍には必要なんでしょうか?

一応救済システム?として離散家族の子供を暗部養成部門「根」に入れることがサイによるとあるようですが。

これ、救済じゃないな。里のためだな。

 

カブトが育ったのは孤児院でしたが、あれは忍になる前でしたし。

 

ナルトが火影になったボルト時代はもう孤児になる子供は少なそうですが、ナルトにはぜひ孤児院を創設してほしいなぁ、と。

 

ナルトなら真っ先に思いつきそうですがね、本人が一人ぼっちで辛い思いをした子ですから。