蟲師「雷の袂」に見る親子の形
蟲師は昔から大人向けの作品だと思っていましたが、続や続2になるにつれて世の理不尽とそれに折り合いをつけて必死に生きる人々の現実を描く話が多くなっていくように思えます。
今回は僕が蟲師で最も好きで何度も見たい話、「雷の袂」について。ネタバレありです。
この回では、ギンコはわき役というか、立役者でしたね。主人公が少年「レキ」と母の「しの」。
この二人、実の親子なんですがうまくいっていません。望まぬ結婚、妊娠でレキを産んだしのと、母から愛されないレキを中心に二人の目線から物語は展開していきます。
印象的なシーンは、過去に幼いレキを雷の中、木に縛り付けるしの。
悲しいことですが、人間は望まない子供を愛することはできません。しのも泣き叫ぶレキを見て楽しんでいたわけではなく、家の中で泣き声に耳を塞ぎます。これがまたリアルな虐待の形だなぁ。誰も楽しくて自分の子を虐待するんじゃないんです。でもやめられない、どうしていいのか分からない。
ギンコが関わってくる現在の時間軸ではしのはあからさまな虐待をしているわけではありませんが、息子の命が危ないというのに全く焦りも緊張もみせません。
ここが、うまくこの親子の関係を描いていると思います。
最も印象に残った場面は、やはりあのだだっ広い野原での二人+ギンコのやりとり。
どうしても息子を愛せないから、一緒に死のうとレキを抱きしめるしの。
母を突き飛ばして逃げるレキ。
この場面に、愛憎哀しみ入り混じる人間模様が表れていると思いませんか?
しのがもし本当にレキをなんとも思っていないのなら、なぜ自分が雷に打たれるリスクを冒してまでレキに近づいたのか。なぜレキだけ死ねばいい、ではなく一緒に死のうなのか。
レキがもししのをなんとも思っていないのなら、なぜ母を突き飛ばしたのか。もちろん自分を愛してくれない母に抱きしめられたくなんかないという思いもあったでしょうが、しのを雷から守るためという理由もあったのです。
世間でいう幸せいっぱいの親子の愛では決してありませんが、この親子にも愛という言葉では片づけられないほどの思いがあったということでしょう。
少なくともこの二人はお互いを本当にどうでもいいとは思ってないです。
それと、案外見逃しがちですがこの野原でのギンコのセリフから、彼が母に愛されていた普通の感覚を持つ人だということがうかがえます。
レキに言い返され黙り込むしのに「もっとちゃんと言ってやれ!」「お前に生きていてほしいんだって言ってやれ!」と。
これは親子関係がうまくいっている人でないと言えないセリフです。特に「お前に生きていてほしい」なんてセリフをさらっと言えちゃうところが。
こういういわゆる「キレイゴト」のセリフは愛されなかった人はどうしても言えません。自分で自分の言葉が嘘だとわかってしまうからです。嘘に聞えてしまうからです。
自分の音痴な歌声を聴いていられないように、思ってもいないきれいごとは人間言えないものです。
そもそもギンコは少年時代、母と仲良く行商しているシーンがありましたし、母を亡くして泣いている場面もありました。後に母代わりとなるぬいにもそっけないやり方ではありましたが可愛がってもらっていましたし。
子供時代に大人と愛情の関係を結ぶ、という点においてはギンコはあまり問題なかったわけです。
雷の袂の話に戻ります。
そして何より納得がいくのはこの二人のその後。
レキは親戚の家に預けられ、この母子は距離を置いて生きていくことになった、と。
こういう終わり方はやはり大人向けの作品でしかできません。普通のアニメだったらその後母子が和解しなければ視聴者から文句が出るでしょうから。
蟲師は耳障りの良い理想論ではなくあくまで現実的な答えを出すところを僕は気に入っています。
親子の形も常に一緒にいてニコニコ幸せでなくったっていいわけです。
距離をとってお互い冷静に上手く付き合えるならそのほうが無理やり一緒に住むよりいいわけです。
そういう感情でなく理性で判断した結論を回答として出せるのがやはり蟲師の魅力だと思います。
ただやっぱりアニメだな、と思うのはあれだけ邪険にされたレキがあまりスレてないところ。
普通あれだけ母に愛されなくて雷の被害から他の人を守ろうとは思わないでしょう。むしろ他者をワザと巻き込んでいい気味だ、ぐらいは思うはずです。
僕だったらわざと雷を家に落とす、くらいはやりそうです・・・
レキが生まれつきそういうスレにくい性格だったのだ、といわれればそれまでですが。
蟲師はイイハナシで終わらせるより、その時その時でギンコが出した答えに視聴者が納得したり疑問を持ったりしてストーリーが終わる事が多いですが、その中でもこの話はなかなか現実に即していて考えさせられるものだと思います。
まだ見ていない方、どうぞ見てみてください。