少年敗走記

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実写版「蟲師」はなぜつまらないか

久々にアニメの実写版を見ました。少し古いですが2006年の「蟲師」。オダギリジョーが主演の映画です。

 

アニメの実写というのはたいていが失敗する、といわれていますが御多分に漏れずこれも「ああ、失敗してんなぁ」って感じの映画でした。以下辛口の批評です。

 

いや、いいところもたくさんあったんですよ?

オダギリジョーのギンコがなかなかはまり役だとか、舞台が古い日本なので世界観に違和感がなく、その時代の一般人の「小汚さ」がよく出てるとか。ギンコのいかにもウィッグの銀髪もかえって良い感じでした。生まれつきの白髪ではなく蟲のせいで色が抜けたわけですから不自然な白になるのはもっともかな、と。子供のうちに白になったのだから髪に若さが出て銀になるのもさもありなん、ってことで。

あと虹郎がなかなかいいキャラでしたね。

 

でも、これおかしいんじゃないのって点もかなりあって。

まずストーリーの進み方が「とびとび」すぎ。

旅をする蟲師ギンコ(現代)→子供時代(ヨキ)→また現代に戻って→子供時代終結→現代っていう進み方なんですが、あっちこっちとびすぎていてストーリーに入り込みづらい。もうちょっとまとめたほうがよかったんじゃない。

まあ2時間という制約の中で蟲師を知らない人にも分からせなきゃいけないわけですから多少不自然なのは仕方が無いにしても2つのストーリーを無理やり1つにつないでいるような違和感は否めなかったです。

 

あと、これが最大の問題点ですが、この監督女を描くのが下手すぎやしません?ステレオタイプすぎるというか、女を知らないというか。

「ギンコが淡幽のことが好き」

僕は原作至上主義ではないですが実写映画の恋仲でない男女を恋愛関係にするという手法が嫌いです。単純すぎて。

 

この2人の関係って決して恋仲じゃないんですよ。一所にとどまれないギンコと一所にとどまるしかない淡幽っていう相反する似た者同士、しかも二人とも宿命、運命を背負う恋愛程度では描けないはずの深いつながりのある2人なんです。

それを男女だから、といってすーぐ恋愛に落とし込む映画ははっきり言って監督が低レベルか童貞かだと思います。別に蟲師に限らないですが。

 

あと、なんで「俺は淡幽に好きだといえないんだ」ってセリフを終わりの14分前に言わせるのか。結局そのフラグ回収できてないし。

虹郎が「淡幽と一緒に村に遊びに来い」って言うことで回収した気なんでしょうか?

原作でもこのセリフ淡幽の「お前(ギンコ)と一緒に旅がしたい」としてあるんですが、これは状況とその後のセリフからして「まあ無理だがなぁ」って意味で言ってるんですね。実写で虹郎が言うセリフではないかな、と。

でもまぁ虹郎も「無理だろうけれど」という想いを含みつつ必死に叫んでるとも取れるのでここはまだマシです。

それと結局虹郎がどういう人間で、なぜ虹を探しているのかに言及していない。狂言回しとしては使いやすかったのかもしれないですが虹郎を掘り下げていない点においてもつまらないですね。

 

そして何より腹が立つのはヌイをただの狂人にしたこと。蟲師の世界観を壊してまで。

おそらく「母の愛に狂った女」を描きたかったのかもしれませんが、これまたヌイもそういう人じゃないんですよ。

原作ではヌイは夫と子供を銀蟲、トコヤミによって失くしその原因を研究していくうちに自分も銀蟲に侵され、最期光となり消える、というキャラクターです。

ヌイは自分が銀蟲に侵されたときから死を覚悟していた人です。ヨキに出会うことでその決心が少し揺らぎますが結局夫と息子を想い、トコヤミに飲まれることを選びます。

 

それを実写ではトコヤミに飲まれたが「偶然(ここがまた甘っちょろい実写くささ!)生き延び、ヨキを探す狂人」と化します。

ここに「亡き息子の面影をヨキに見た母としてのヌイ」を描いているのでしょうが、ヌイは研究者であり家族のある意味での復讐に生きていた人です。原作でも帯の細い一見男物に見える着物を着ていたように「母性を少しヨキに向けつつも結局死を選ぶ」という自分の生き方を通した人です。

実写でヌイに女物の着物を着せたのは

筋の通った生き方<母としての想い

を描きたかったのかもしれないですが。ヌイが男だったら筋の通った生き方(原作にあるような)描き方をしたのでしょうが、女=亡き息子に似た子にほだされ潔く死なずその子を追い求め狂人と化す、にしたところが女のステレオタイプすぎる描き方というか「まあ女だからな」って感じに見えて下手さを感じますね。

 

「淡幽は恋愛」「ヌイは母性」で描いてしまったところが「女ってのは恋愛と母性本能を描きゃぁいいんだよ」って感じで中学生男子の発想っぽい。

さてはこの監督女性経験ないな。

 

蟲師の世界では「銀蟲に憑かれたものはいずれトコヤミに飲まれる」「トコヤミから抜け出すには自分に名前を付けること。(ただしそれ以前の記憶は失う)」が絶対条件です。

この条件から読み手は「ギンコはヌイを覚えていない」「ギンコもいずれ(ヌイがそうなったように)トコヤミに飲まれ光になる」「ギンコ本人はそれを知っているのかどうか分からない」というギンコの先行きの暗さと切なさを見出します。

 

それをあんなにあっさりギンコの子供時代の記憶を戻してしまっていいのか。自分がヨキであったことも忘れているはずのギンコが狩房家でトコヤミの記録を読んだ時、ヨキという名に反応する。「見知らぬトコヤミに憑かれた女」にヨキとよばれあっさりヌイを想い出す。

なんだ、トコヤミってたいしたことないじゃん。って思ってしまうんじゃ?

 

そのほかよくわからない設定がいくつか。そのほとんどがクライマックス、終わりも終わりの場面ばかりですが。

「ヌイと一緒に旅をしている口のきけない男は誰か」

もし元の夫なら息子はどうしたのか。なぜ口がきけないのか。原作通りトコヤミに飲まれたとしてなぜ生きていられたのか。

「口のきけない男が殺した女は誰か」

「ギンコとヌイが小屋で対面するシーンで光ったのはヌイが光になったのではないのか」

ヌイ(銀蟲、トコヤミに憑かれている)とギンコ(銀蟲に憑かれている)が対面すればストーリー上ギンコがヌイに飲まれて消えるはずですがなぜかヌイが光る。のに消えない。最後ギンコは光脈筋から蟲を呼びヌイの周りに集めていますがあれは何をしているのか。光酒を浴びさせることでヌイを取り戻そうとしているのか。

あの時点でヌイは銀蟲になりトコヤミに飲まれているはずですから光として消えなければならないんですけどね。精神的に「消えた」のなら元には戻せないはずです。

「虚繭とり」であったように蟲のルールは絶対ですから。

 

もしかしたらギンコなりの埋葬なんでしょうか。

 

「虹郎は蟲が見えるのか、見えないのか」

この設定ブレッブレですよね。虹蛇が見えるのは蟲が見える者だけです。「赤ん坊のころ俺だけが虹蛇に反応していた」という原作の虹郎のセリフから原作では彼は蟲が見える人です。

実写では虹蛇が見えていることから彼は蟲が見えるはずですが、なぜかたくさんの蟲が光脈筋に集まっていくシーンでは見えていない。淡幽の蟲封じの動く文字が見えているのだから見えるはずなんですがね。

 

最後に「光脈筋が意外と汚い。」

もちろん生命の源が流れこむ川ですから蟲が集まっているのは当然です。そういう意味ではなくて、アニメであれだけ美しく輝いていた光脈筋が濁った泥みたいな色。なぜもっと綺麗に描かなかったのか。

 

漫画、アニメの実写なんて期待しないで見る方が、もっと言えば見ない方がいいんでしょうが僕はこの作品が好きではありません。

蟲師の時代背景を上手く描いている反面、世界観がぶれ過ぎで。

蟲師を知っている人は見ない方がいいと思います。僕みたいに細かい設定にこだわる人はもちろん、ストーリー重視の人は。

蟲師の時代背景を見たいなら見てもいいと思います。おすすめはしませんが。

やっぱり二次元は二次元のまま楽しむのが一番ですね。