ヒラサワと幽霊
ヒラサワ曲にはしばしば「幽霊」というキーワードが出てくる。曲名なら新曲の「幽霊列車」「幽霊船」「幽霊飛行機」。
サイエンスの幽霊はアルバムがもう幽霊だ。
ヒラサワの言う幽霊は=科学の否定したもの、スピリチュアル系と揶揄されるような西洋科学の思想からこぼれ落ちてしまった東洋思想(仏教とか瞑想とか)古代の部族が持っていた老賢者の知恵とか。
「幽霊船」の歌詞なんてまさにそれを皮肉っている。西洋科学の権威のもとに否定された人類の英知は今幽霊船の形になり人々の前に現れる。
そして科学の権威は古の知恵の前に跪き、古代の知恵は悠々と何に屈することもなく夜というかつて人類が人らしく生きていた時を行く。そんなユートピアの歌なのではないだろうか。
曲調と歌詞からして暗い夜の曲だがこの夜は希望に満ちた人類のための夜なのでこの暗さは希望をはらんだ静まりと安息の夜だ。癒しの暗さ。全きヒト科のための安寧の夜。なので一般的な意味での、絶望の意味での暗さではない。
これ以上言うと幽霊船の曲考察になってしまうな。
そういうかつて活気をもって生きていた西洋哲学でジャッジできない人類の英知、「非科学的」の刀で一刀両断されてしまった輝かしかったヒト科の叡智なのかもしれない。
そう考えるとサイエンスの幽霊より「フィッシュ・ソング」は自然が作り出した法則(のちにフィボナッチ数列への興味へ通ずる?)、誰が教えたわけでもなく魚の群れがまるで一匹の生き物のように動く地球システムへの畏敬の曲だ。
「カウボーイとインディアン」なんてもうそのまま。
ヒラサワの言う幽霊はマイナーとして誇りを持ち、迫害を避けて隠れて生きる賢者たちを指すのだと思う。