少年敗走記

脳みそをさらけ出すダンスホール。

NARUTOの世界の子どもに関する社会制度

NARUTOの世界って結構子供に対しても容赦ない世界ですよね。

もちろん忍(兵士)の世界なのでシビアなのは当然なんですが、それもだんだん国の平和と共に緩和している気がします。木ノ葉創設期からBORUTOまで見ていくとよくわかります。

 

例えば、

・木ノ葉の里創設期 [マダラ、柱間時代]

生まれた子供全員は生き延びられない。5人兄弟で3人殺されるような。

目の前で敵の兄弟を殺し、敵に兄弟を殺され。

 

マダラと柱間が子どもが殺されない世界を夢見たのもさもありなんでしょう。

 

・忍界大戦期[カカシ、ミナト、イタチ時代]

子供を兵士として戦わせる。戦争が国同士の総力戦っぽくなっているのである意味創設期より幅広い戦いになっている。

 

・ナルト時代

大規模な戦争は失くなっていくものの、まだまだ抜け忍や組織的な戦闘はある。

クライマックスでは木ノ葉の里壊滅状態。

 

・ボルト時代

現代の日本のように戦闘はほとんどなくなっている。しかし、戦争の遺恨や力を持てあました人間が暴れている。

 

特に問題なのはカカシ時代、ナルト時代の「親を失った孤児を一人で生活させる」システム。

 

おそらくカカシ、イルカ、ナルト、サスケ、ネジがそういう生活をしていたのではないかと。

これ、忍には必要なんでしょうか?

一応救済システム?として離散家族の子供を暗部養成部門「根」に入れることがサイによるとあるようですが。

これ、救済じゃないな。里のためだな。

 

カブトが育ったのは孤児院でしたが、あれは忍になる前でしたし。

 

ナルトが火影になったボルト時代はもう孤児になる子供は少なそうですが、ナルトにはぜひ孤児院を創設してほしいなぁ、と。

 

ナルトなら真っ先に思いつきそうですがね、本人が一人ぼっちで辛い思いをした子ですから。

NARUTOの世界の気候は春のように温暖か

僕はNARUTOが一番好きな漫画です。それはこれからの人生でも変わらないと自信を持って言えます。これから先、どんな漫画が世に出ようと僕にとってはNARUTOが永遠に一番です。

なぜか?

まず、僕は漫画は基本シリアスが好きです。もちろんギャグ要素も入っていていいんですがそのギャグでみせたコミカルな姿とシリアスでのギャップがあるキャラクターが好きです。

NARUTO以外だと銀魂。銀さんはギャグとシリアスの差が激しい人です。最も好きな話が紅蜘蛛編、地雷亜との一戦。松陽先生と自分を地雷亜と月詠に重ねつつ、

「荷ごと弟子を背負う背中がお前に、あるか!」

銀時もある意味カカシと同じく過去に囚われた人ですが。銀魂ももっとシリアスを増やしてほしいです。

 

じゃあ、銀魂よりNARUTOの方が好きなのはなぜ?

銀魂は基本はギャグ、そこにシリアスをたまに混ぜる。

NARUTOは基本はシリアス(バトル漫画なのでシリアスになりがち)、ギャグは戦いのないたまの平穏でちょっと起きるくらいです。それも後半でストーリーが進めば進むほどなくなっていきます。

あとは個人的に銀魂のように一話完結型+ゆっくりストーリーを進めるタイプよりNARUTOのように速くストーリーが進んで行く方が好きだから。

 

それに僕は、木ノ葉の里が好きです。街並みが。レトロな街並みが、近代文明と昔ながらの日本が混ざり合ったあの里が。

岸影先生の書く、街や建物が自分の好みドストライクでした。

かつ、NARUTOの世界観、戦争が当たり前にある、その中で大切な人を失いながら、殺し殺され、報復しあうNARUTOの世界が好きです。

だからあえてBORUTOに手を出しませんでした。BORUTOは平和すぎる。戦争があたりまえでない世の中で、戦うための忍はどう生きるのか、つまらないんじゃないかと思っていたからです。

いざBORUTOのアニメを見たらそれはそれで面白かったですが。

 

それと、僕はNARUTOの漫画からは気温を感じます。これは他の漫画では覚えたことのない感覚でした。

漫画だけです。アニメではありませんでした。

僕は、NARUTOの漫画からは春の陽気を感じるのです。特に一期の里から。

 

これは、メインキャラクターたちの服装のせいかもしれません。

ナルトは長袖長ズボンのジャージ下に半袖。サスケは半袖ハーフパンツ。サクラは半袖スパッツ。カカシは黒の長袖長ズボン+ベスト。

この服装が共存できる里の気候って結構温暖ですよね。

 

この日本で考えると例えば真夏のような気温ではナルトが暑い。雪の降る場所にナルト達が行ったシーンではコートをナルトやカカシが羽織っていましたから里は真冬のような気温でもない。

とすると、木ノ葉は秋、春くらいの気候だと思われますが僕は個人的には春の様な暖かさだと感じます。

一期でナルトが自来也と水上歩きの修行を温泉で行っていたことがありましたね。何度かナルトはお湯に落ちてずぶぬれになり

「あっちい、こんなもん着てられるかってばよ!」

とジャージを脱ぎ捨てます。このシーンで僕は木ノ葉はやはり暖かな春の気候(5月の終わりくらい)なのではと感じました。

 

やってみると分かりますが、お湯に濡れた服を寒い場所で着続けていると服が冷え、急激に寒さを感じます。

もし気候が秋だったらいくら元気なナルトでも寒がるんじゃないでしょうか。

お湯に濡れた服が暑いんですから木ノ葉はかなり温暖な気候といえるでしょう。

 

木ノ葉の里という名前からするとなんとなく秋っぽさを感じますが、主人公のナルトには秋より春が似合う気がしますし。

もの寂しい秋より、始まりを感じさせる春が。

 

 

ナルト、母との再会は悲しいシーンでもあった

カカシの悲しみについて書いた記事ではナルトは悲しい過去を背負いつつも前を向くキャラクターとして話を進めていきましたが、ナルトメインのストーリーで間違いなく悲しいのは母、クシナと再会したシーンでしょう。

分かりにくい悲しみです。

ナルトが初めて母と会うのは生まれた時を除くと九尾の中ですが、その時ナルトには目の前にいる女性が誰なのか分かりません。

「誰だってばよ!?」

「さては九尾、女に化けてオレをだますつもりだな!?」

 

このシーン、ギャグに見せかけての悲しいシーンです。小さいうちに母を亡くした子は目の前の女性が誰だか分からない。

 

NARUTOにはちょくちょくこういう、悲しいというよりは胸が痛いシーンがあるので読み応えがあります。

子供向けとは思えないです。

NARUTOで最も悲しく切ないキャラクターはイタチではなくカカシである

「イタチじゃないの?一族皆殺しにさせられて里を抜けた犯罪者にならざるを得なかったんだから」

ってみんな思うでしょう?

 

でも、僕はカカシが最も悲しいキャラクターだと思います。

まずはイタチとカカシを比較してみると

・イタチ

元暗部メンバー。一族皆殺し。里とうちはの二重スパイ。

 

・カカシ

元暗部メンバー。スリーマンセルの仲間(リン)殺し。父親が自殺。

 

こうなります。この二人の共通点は「仲間を手にかけた。仕方のない状況で」だと思いますが、決定的に違う点があります。

 

それは、イタチにはサスケがいたこと。

 

イタチは一族を手にかけたといってもサスケだけは殺せませんでした。

そしていつの日か、サスケに殺されるために生きていました。

ある意味、イタチには未来があったのです。成長したサスケと闘い、サスケを呪印から解放し殺されるという未来が。たとえその未来の先に自らの死が待っていたとしても。

イタチは殺した一族や父母、シスイより、生きて成長して自分の元へいつの日かやってくるサスケを見て惨劇の夜の後を生きていたでしょう。

 

しかし、カカシにはもう誰もいません。

父親を自殺で失くし、忍界大戦でオビトを失い、里を守るためリンを殺し、師であったミナト先生は九尾のために死ぬ。時系列ではおそらくこの順だと思います。つまり、ナルトが生まれた日カカシは総てを失ったのです。

 

だからカカシには未来が無い。永遠に過去を向いて生き続ける人です。

覚えてますか?カカシが初めて第七班のスリーマンセルにやってきた日、全く覇気がなかったというか、やる気ゼロだったのを。

カカシは最後の大切な人、ミナトを失ってからナルトが第七班にやってくるまでの十二年間を死んだように生きていたのではないでしょうか。

ちなみにカカシがナルト達以前の下忍を全員不合格にし続けた理由ですが、彼本人は「仲間を大切にしない奴はルールを守らない以上のクズだから。」と言っていますが、僕はそれだけではないと思います。

自分のように大切な人を失くす子をこれ以上増やしたくないというカカシ自身の願いでもあったと思います。

 

かつ、カカシがいつも遅刻してくるのはオビトの記念碑に立ち寄っているから。

これを踏まえてオビトに言われた「仲間を大切にしない奴は」のセリフ、「バカだった自分を戒めたくなる」を考えてみるとやはりカカシの心は過去にあると思います。

 

しかし、実はカカシもナルトに助けられている一人ではないでしょうか。大切な人をすべて失い一人になっても似た境遇のナルトがいる。ナルトは常に前を向き続ける人です。カカシはそこに未来を見出したのではないでしょうか。たとえそれがかつての父やスリーマンセルと過ごした幸せな過去にはおよばなくとも。

 

だからサスケの里抜けの前、サスケの復讐を止めたのではないでしょうか。サスケはナルトのライバルであり、だからこそ心の支えだから。

どうみてもカカシのガラではないでしょ?人のことに首突っ込むなんて。

 

でも、カカシとサスケもまた決定的に違うんですよね。イタチにはサスケがいた様に、サスケにもイタチがいる。復讐相手がまだ生きている。イタチを殺すために生きるというのがサスケの希望だったでしょう。

 

一方カカシは、仲間が死んだのは忍界大戦のため、九尾のせい。

復讐相手がいないのです。戦争という概念に復讐はできない。戦争相手だって仲間を失い苦しんでいることはカカシも良く分かっている。九尾はナルトの中にいるのでやっぱり報復はできない。

明確な相手がいないからカカシは復讐には走れず、やりきれない思いを抱え続けるしかない訳です。

 

イタチが最も幸せだったころはおそらく、子供時代、アカデミーから帰ってきてサスケと遊んでいたころだったでしょう。

イタチはその幸せは失くしますが、生き残ったサスケに殺されるという未来があった。彼にとっては希望です。

では、カカシが最も幸せだったころはいつか。父親サクモさんが生きていたころ。オビト、リン、ミナトでスリーマンセルを組んでいたころ。

それをすべて失い、カカシには希望がない。かつ、カカシはまだ生きている。

 

未来への希望が無い点においてはネジも一緒です。同期が結婚し、子どもを育て、年を取っていってもネジは永遠に17歳のまま。

 

でも、ネジやイタチはもう死んでいるので希望が無くとも本人には関係ありません。

カカシが悲しいのは昔の幸せは二度と取り戻せない、これからの未来で得るかもしれない幸せも過去の幸せには及ばないとわかっている。分かっているのに生きていかねばならないからです。

 

一度、カカシが死の世界に足を踏み入れたことがありましたよね。神威の使い過ぎでチャクラ切れを起こし、命に係わった時です。

死の直前の回想で思い出したのは誰か。オビトです。

死の世界の入り口でカカシを待っていたのは誰だったか。サクモさんです。

サクモさんの発言からカカシの母はもう亡くなっていることも分かりました。

死の瞬間というのは一番その人の本質が出る場面だと思いますが、そこでカカシが思い出したのはすでに過去の人ばかり。

 

そして死んだとばかり思っていたオビトとの再会。本来なら失くした幸せが思いがけず帰ってきた、カカシにとっては救いになるはずでした。しかしそのオビトを殺さなければならない。過去のオビトを守るため、里の未来のために。

いや、里のためというよりはナルトとその仲間たちのためでしょう。まさしくアスマの言う「玉」を守るためです。たとえそれがカカシ自身の幸せではないとしても。

 

また、クライマックスでの無限月読。

カカシはこれにかかりませんでしたが、かかっていたら間違いなくサクモさんやスリーマンセルで過ごした幸せな過去を夢見ていたでしょう。

もしかしたら、カカシは無限月読にかかることで戦意を喪失していたかもしれません。

僕は、カカシは無限月読の中で生きていった方が幸せだったと思います。それを選択せず、戦い続けたカカシは間違いなく強い人です。

強いからこそ危ない。一度死のうと決めてしまったら、彼は迷わず死ぬでしょう。強いから迷わないのです。ためらわないのです。

 

つまり、カカシはもう過去と同等、それ以上の幸せは望めない、幸せの絶頂期は過ぎてしまった。

それなのに生きていかねばならない。

ある意味死ぬより苦しいです。

これが僕がカカシがNARUTOで最も悲しいキャラクターだと思う理由です。

 

このことを踏まえるとBORUTOで出てくるカカシの姿にも納得がいきます。NARUTO世代が結婚し、子どもを作っても、同期のアスマが紅と結婚しても、カカシは結婚しません。

なぜか?幸せだった過去に囚われているから。

結婚して子供をつくるというのは未来への希望を持っていない人間にはできません。

子ども=玉は未来そのものだからです。

 

おそらくカカシはこれからも結婚しないでしょう。それはそれでいいとして、僕が恐れているのはカカシが自殺するのではないかということ。

自殺というよりはわざと危険な任務につくのでは、ということ。

 

カカシが今日まで生きてきたのはオビトの目となって里の未来を見据えるため、そしてナルトに希望を見出し、守りたかったから。

 

今、ナルトは火影となりもう守られる必要はなくなりました。オビトを倒し、写輪眼を返した以上、もうオビトの目になる必要もないのです。

カカシは里の平和と引き換えに人生の目的を失いました。そして自分にとって大切な人たちはみなもう死んでいる。

 

どういうことだってばよ?

つまりカカシはもう生きている理由がない。カカシにとっては、です。

誤解を恐れずに言うと、カカシにとっての最高の幸せは失くした過去である以上、死んだ方が幸せであるということです。

 

NARUTOはある意味KAKASHIであったと思います。

限月読というクライマックスでかつての仲間と対峙するカカシ。NARUTOのもう一人の主人公はカカシであったといえます。

そしてNARUTOの終わりはナルトにとっての始まりでカカシにとっての終わりです。

ナルトは見事戦争を終わらせ火影となり、これから里を守っていく。始まりです。

一方、カカシは戦争が終わり、かつての仲間オビトを葬った。終わりです。

 

ナルトが火影としてスタートを切った時、カカシの役目は終わったのです。

もうカカシに心残りはありません。

 

でも、願わくばカカシ、余生をゆっくり過ごしてほしい。過去に囚われたままでもいいから、新しい木ノ葉の里を見守って平穏に生きてほしい。

やっと平和が来たのだから。

 

カカシはわずか12歳で上忍になるほどでしたから写輪眼がなくてもかなり有能でしょう。

ナルトの世界で有能な人はたいてい幸せに生きていません。イタチしかり、ネジしかり。でもサイだけちょっと例外です。

 

これは単なる僕の考察ですが、カカシの救われた姿がサイなのではないでしょうか。

サイは暗部養成部門「根」のシステムの中で育ち、危うく兄のシンと殺し合いをさせられそうになりました。本当に殺し合いをしたのか、あるいはサイの言う通りシンは病死したのかはわかりませんが暗い世界で育ち、感情を失くしたのは確かでしょう。

しかし、サイはナルト達と出会い、過ごしていく中で人間らしさを取り戻し、BORUTOでは結婚までしています。

 

サイとカカシの違いは何なのか。

二人は同じ元暗部ですが、サイはナルトに出会うことができました。カカシにはナルトのように辛い過去に寄り添ってくれる人はいませんでした。カカシの仲間は皆死んでしまいましたから。

 

そして何より、サイは根を「抜ける」ことで苦しい過去を置いてきたと解釈することもできます。この点はイタチも里を「抜ける」ことで暁という新しい居場所を見つけたともいえます。

しかし、カカシの苦しみはこの世界そのもので起きたこと(忍界大戦、父の自殺、九尾襲来)なので「抜ける」ことはできません。

この世界から抜けるには死ぬしかないですから。

この決定的な違いが、サイは過去を振り切り新しい希望、玉=いのじんを得て、カカシが過去に囚われたままである理由だと思います。

 

以上、長々とカカシの考察でした。

BORUTOでカカシがどう活躍するのか、しないのかじっくり見ていきたいと思います。

しなくてもいいよ、カカシ。

 

 

AD-LIVE 2016 の昼公演で梶君と賢雄さんの非凡さを知る

ネタバレあります。ご注意を

敬称略で記載している声優さんの名もありますが、ご容赦を。

 

声優の鈴村健一さんが主宰しているAD-LIVE舞台。

僕はこの舞台の大ファンで2014からずっとDVDで観ているんですが、ほとんどの公演を見て中でも一番好きな回が2016年の梶裕貴さんと堀内賢雄さんの昼公演。

この記事ではこのAD-LIVE2016、梶vs賢雄さんの昼公演について語るのでDVD買おうかどうしようか迷っている人は参考にどうぞ。迷っているけどネタバレは嫌だ!って人にはただ一つ。

買ってください。観てください。考えさせられます。

 

そもそもAD-LIVEは片方のキャストが作ってきた世界観を何も知らないもう片方がアドリブで対応しながら進める台本無しのまさしく「アドリブ」劇。

終わり方も様々で、例えば下野vs浅沼公演では昼が熱血な終わり方。夜は裏切り。

この二人の公演は特殊タイプでしたが、僕の印象では両者が分かり合えて、これから前向きに生きようぜ!っていう感動でおとす最後が多い気がしました。

 

2016年のAD-LIVEは何も知らない側の役者が眠っている、意識不明の状態である設定なので、どうしても最初は心を閉ざし、生きる気力をなくしていたりします。

なので、ほとんどの世界観を作る側のキャストが相手を励まし、前向きにさせ、力づける方向で舞台が進み、最後は気力を取り戻し現実に戻る、というオチになることが多いです。

 

しかし!この梶vs堀内昼公演は感動でオトすんですが、世の中的に誰もが手放しで評価するような感動ではありません。(僕は最も好きなおとし方ですが)

 

世界観を作るのは梶君。何も知らない側が賢雄さん。二人は父子という設定で話が進みます。(梶君が父。賢雄さんが息子。)

梶君(パパ)はすでに亡くなっており、賢雄さん(げんじろう)は人生がうまくいかずに自殺未遂。

意識不明のげんじろうの元にパパが天国から会いに来ます。そのまま話は進みますが、最後の梶君の手紙が良かった。

 

無理に「絶対に生きろ!」って言わないんです。目を覚まして頑張って生きるもよし。このまま眠り続けて死に、パパと天国で幸せに暮らすもよし。

好きな方を選べ。どちらを選んでもパパはお前を愛している。と

 

平凡な役者だったら「お前はまだ生きられる!生きなかったらパパ許さないからな!」って言っちゃいそうじゃないですか?

観客だって「無理をさせてでも生きさせる父の愛と、がんばってそれに応えて生きようとする息子の健気さ」のほうが簡単で感動させやすいでしょう。

 

でもこの二人はそうしなかった。

「死んでパパの元に来る」という選択肢をつくった梶君と、それを選んだ賢雄さん。

生きることが必ずしも正解ではない。この世に命さえあればいいという風潮への対抗に僕には感じられました。

 

結局死ぬ方を選んだげんじろう。

もちろん観客の中には「それでも生きる方を選んでほしかった」という意見もあったでしょう。

でも、僕は生きる方を選べなかったげんじろうの弱さ、傷つきながら死ぬ思いで生きるよりはパパと天国で暮らしたいというある意味での「逃げ」の思いに人間らしさを見るのです。

 

崇高で気高い人間らしさではなく、弱くて傷つきやすい人間の本質を、です。

 

こんなに考えさせられるAD-LIVEの終わり方は今まで見たことがありませんでした。

これ台本なしですよ?

どうなってんだこの二人。

 

ここまで手放しで褒めている僕ですが、観始める前は正直この二人で大丈夫か?と思っていました。

梶君は今までのAD-LIVEの中でかなり好きな役者だったので期待が持てたのですが、賢雄さんは初参戦でどんな芝居をするのか分からない。

僕の印象では彼は話回しがうまいタイプではないようだし、ガンガンその場で設定を作っていくタイプの福山さんあたりと組んだ方がいいのでは?なんて思っていたり。

 

ですが、観終わって一言。いえ、そんな心配は全くありませんでした。ないどころか2014~2016までのAD-LIVEの中で最も好きな、何度でも見たい回になりました。

 

AD-LIVE初心者に勧められるスタンダードプレイではないものの(特にラストは)、お涙ちょうだいのありきたりの感動オチでない最後は胸に迫るものがあります。

まさしく、考えさせられるオチです。世間に受け入れられなくても、こういう「幸せ」もあってもいいよねっていうオチです。

 

だからむしろ、AD-LIVE慣れした人に是非観てほしい公演です。

どうぞ観てください。そしてラストでいろいろ考えてみてください。

 

あ、夜公演はまた違った面白さがあるので時間があったらまた記事にしてみようかと。

「人生にムダなことはひとつもない」読了。自分の信仰について考えてみた。

タイトル通りです。

僕はひねったタイトルつけるのが苦手なので。

 

僕はそもそもこういう明るい前向きな自己啓発本みたいなのは嫌いでして。

「希望を捨てなければ道は開ける!」

みたいな、いや何の証拠があるんだよ、その人がたまたまうまくいっただけじゃないのっていう言説が嫌いです。

 

じゃあ何でこの本を読んだか。

外交官で作家の佐藤優さんの本だから。

いや、別にこの人の職業は関係ありません。この人がキリスト者で信仰に対して誠実な人だから、その話が聞きたかったっていうのが一つ。

 

もう一つはこの本は対談形式なんですが、その相手が創価学会の人。ナイツっていうお笑い芸人です。

僕はテレビ持ってないのでこの本読むまで存じ上げませんでした。

youtubeでちょっとお笑いを見てみましたが、なかなかおもしろい。

笑いは落語の方がいいと思っていた僕でも、ちょっとお笑いに興味を持ちました。

 

それに、この人たち、テレビの前で堂々と「僕らは創価学会員です」って発言してるんですよね。

そんなこと言ったらバッシングされるんじゃないかなと思ってましたが、そうでもないようで。

 

そんな三人の対談でしたが、僕が一番知りたかった信仰についてかなり情報を得られたので読んでよかったです。

 

最も心に残ったのは、佐藤さんの「一つの確固たる信仰を持っている人は苦難に強い」

 

これは別の創価学会の人の話でも聞いたことでした。

一度人生どん底に落ちて、「ああ俺はもうだめだ。死ぬしかない」という状態からお題目によってよみがえる。

 

学会の人でなくても法華宗の人にはしばしばあるそうです。

 

今信仰を持っていない僕からすれば、それはお題目のおかげというよりは自分が信じているものに一生懸命すがったから立ち直れたんじゃないか。だから別にお題目じゃなくたって自分がこれが正しいと思っているものにすがればいいんじゃないか。それがたまたま彼らの場合はお題目だったんじゃないか、と考えます。

 

プラシーボ効果って奴です。ただの小麦粉でも薬だと心から信じて飲めば病気が治ってしまうような。

 

でも、それを除いても創価学会はコミュニティとしての価値があるように思えます。

僕は学会員ではないですし、創価学会とは何の利害関係もないので特に発言に制約がかかるわけじゃないですが、話を聞く限りでは座談会で会員同士が交流し、一緒にお題目を唱えることでつながっていく。

 

良い組織じゃないですか。地縁血縁コミュニティが崩壊した今、子供、若者老人が一緒に集まる機会なんてそうそうないです。

 

しかも、ほかの宗教組織と違って小さな子供と老人だけのコミュニティではない。

伝統仏教のお寺に行けば一目瞭然ですが、檀家の老人と幼稚園くらいの小さな孫しかいません。

その孫たちも小学生、中学生になればお寺から離れていきます。

田舎のお寺はもっと悲惨です。小さい子がいないので老人の世間話コミュニティになってしまっています。

檀家の老人がガッチリ村社会を作っている(総代さんという村長までいる)ので新規の仏教に興味のある若者が入っていける場ではありません。

法話中みんな寝てるし。

 

崩壊した、しつつある伝統仏教と一線を画して創価学会はまともなコミュニティをつくれているようで、これは現代日本においてはすごいことです。

だから世界に広がったんでしょうね。

 

佐藤さんはクリスチャンですが創価学会のファンだそうでwww。

ファン、って立場があるんですね。

僕も創価学会のファンかもしれません。

僕は今、伝統仏教日蓮宗曹洞宗に信仰のコミュニティを求めていますが、上記の通り、仏教の実践ができる場ではなさそうです。

 

だったら創価学会に入会してしまおうかと思う今日この頃。

 

ただ、問題がありまして。

一つ目は学会は他宗派に厳しい。

法華宗ならどこでもそうですが、基本的に法華経が最高だぜ!の立場です。

日蓮上人が「念仏無間、禅天魔」なんて言ってますから。

僕はテーラワーダの瞑想も続けたいし、キリスト教会とも仲良くさせてもらっているのでどうしようかと。

 

二つ目は既存宗教の傘下ではない。

新興宗教の信者っていうのは一般社会ではかなり身分が狭いと思います。

例えば、僕が将来結婚するとき、万が一僧侶になるとき、新興宗教に入っていたという事実はやっぱり不利になるでしょう。

 

僕があれこれ悩んでいるのは結局これですね。

自分が何教に入ればいいのか分からない。

大人になってから宗教に興味を持ったものですから自分の中に宗教的な価値観がない。

キリスト教が合うのか、仏教が合うのか。

法華経がいいのか禅がいいのか、はたまたテーラワーダがいいのか。

 

ただカトリックに行くことは無いです。あとイスラーム

同性愛禁止だから。

別にイスラームの教えは面白いと思います。機会があったらモスクに行ってみようかと思うくらいには。

ギリシア正教会とかユダヤ教なんかはどうなんでしょうね・・・

気になりだしたらキリがない。

 

なんだか本の話からずいぶんそれましたがこの本、創価学会に興味があったらお勧めです。

 

田園に死すを観た

久しぶりに映画を観ました。家でね。

 

映画って観る前は一本集中して観るのが嫌だなぁと思ってなかなか手を出さないんですが、いざ見始めると一気に観るという性格の僕です。

 

さて、何で「田園に死す」なんて古い映画を今引っ張り出してきたかというと、この映画、J・A・シーザーが音楽担当してるんです。

 

シーザーって誰やねん、って人も多いと思うので簡単に僕なりの説明を。ヒラサワを男女関係面にヤバくした人です。

 

違います。いや、語弊のある言い方でした。ヒラサワリスナーなら彼のヤバさは分かってると思うんですが、ヒラサワをもっとどろどろ、生生しくした感じの音楽を作ってる人です。主に古い日本の閉鎖的村社会方面に。

 

一度聞いてみてください。おすすめは「越後つついし親不知」。プログレ×土着の村社会の悲惨さって感じ。子殺し子捨て、姥捨て、嬰児の川流し、間引き、娘の身売りあたりの民俗学好きな人は絶対好きです。この曲。

 

さて、映画の話を。脚本は寺山修司ですね。シーザーが音楽を始めるきっかけの人。

 

ネタばれあります。

 

主人公の男が自分の子供時代を振り返り、子供時代の自分と会話し、人生と向き合う話です。ざっくり言うと。名前はしんちゃん。

場面は故郷の閉鎖的村社会と昭和の東京大都会を行き来します。

 

ここにサーカス(フリークショーっぽい)が絡みます。

 

まず、驚いた点が二つ。

何で少年しんちゃんは顔が白塗りなの???

しんちゃんだけでなく、村の中学生たちは少年しかおらず、しかも全員顔が白塗り。これ何でですか?

 

それと、映画紹介文の「少年」から、僕は12歳くらいの子をイメージしてたんですがどうみても15歳くらいの子でしたね。まあ、最後の女にしんちゃんが犯されるシーンをあまりにも小さい子にさせるわけにはいかんということか。

 

だったら15歳もだめだよね。児童保護法に現代だったらぜったいひっかかるし。

 

ストーリーの中では少年は中学一年生、つまり僕の予想の12歳っていうのはだいたいあってたわけですが、上のような事情により俳優はもうちょっと年上。

 

僕はバブル崩壊後の日本しか知らないのでこの時代を理解するのは無理なわけですが、この映画、一度見ただけじゃよく分かりません。

 

ただ、あの時代の日本を形作る泥臭さ、庶民の貧しさは根底によく表れていると思います。

 

あ、あと村でヒソヒソ話し合ってるカオナシみたいな女連中は村社会の閉塞感を視覚化したものじゃないかな、と予想しています。